こんにちは、元臨床心理士の春井星乃です。
現在は、心理学・精神分析・エニアグラムを通して性格構造を明らかにする「イデアサイコロジー」を提唱しています。
みなさんは、個人の「精神的な成長」、「人間的な成長」と聞いて何を思いますか?
「そりゃ成長するべきでしょ」という方や、「いやいや成長なんて目指しても意味ないよー」と考える方、また、一時的には成長したように見えても環境によって変化するので「絶対的な成長なんてない」とする方など、さまざまな立場があると思います。
この記事では、現在までの心理学・思想史で、個人の精神的成長というものがどのように捉えられてきたのかを「成長ある派」と「重要視しない派」に分けてご紹介してみたいと思います。
「重要視しない派」の心理学理論
ポストモダン・ポスト構造主義と脳科学
精神的成長と技術進化、どちらが重要か
「成長ある派」の心理学理論
心理学での「成長ある派」の筆頭は、なんといっても精神分析の創始者フロイトとその弟子から成るフロイト派の理論です。
フロイトは、「リビドー」と呼ばれる性的衝動や欲望を核とした「心理性的発達理論」を提唱しています。
口唇期 | 0〜1歳半 | 母乳を吸うことにリビドーが集中し、口唇周辺の感覚が快不快を決定する。 |
肛門期 | 1歳半〜3歳 | トイレットトレーニングにリビドーが集中し、肛門の感覚が快不快を決定する。 |
男根期 | 4歳〜6歳 | 男根にリビドーが集中し、男根の感覚が快不快を決定する。 |
潜在期 | 6歳〜12歳 | リビドーが影を潜め、感情的に安定する。 |
性器期 | 13・14歳〜 | 初めて性器そのものによる満足が求められる。 |
フロイトは、人間の性格は、男根期までの間に欲求不満や過度な満足を経験し、その段階に固着したり退行したりすることで生じると考えます。
そこから、さまざまな防衛機制(抑圧や否認、合理化など)が生じ、悪化すると精神病理が生じるとしています。
そして、フロイトの弟子W.ライヒは、この固着や退行したエネルギーを昇華していくと感情的にも安定し、愛と信頼を持った成熟した人間として生きていくことができると考えました。
これは、明確な構造を持った「精神的成長がある」とする立場だと言えるでしょう。
また、E.H.エリクソンのライフサイクル論(心理社会的発達段階理論)もその立場です。
0歳 | 乳児期 | 基本的信頼vs不信 |
18ヶ月〜 | 幼児前期 | 自立性vs恥・疑惑 |
3歳〜 | 幼児後期 | 積極性vs罪悪感 |
5歳〜 | 児童期 | 勤勉性vs劣等感 |
13歳〜 | 思春期 | 自我同一性vs自我同一性拡散 |
20〜39歳 | 成人期 | 親密性vs孤独 |
40〜64歳 | 壮年期 | 生殖vs自己吸収 |
65歳〜 | 老年期 | 自己統合vs絶望 |
エリクソンは、人生を8つの段階に分け、それぞれの段階で向き合う課題があるとしています。
また、この思春期の「自我同一性vs自我同一性拡散」の段階をさらに細かく分けて考えるマーシャの「自我同一性地位」という理論もあります。
自我同一性達成 | 「危機と傾倒」両方経験 | 自我同一性を確立している |
モラトリアム | 「危機」のみ経験 | 自分の生き方を模索中 |
早期完了 | 「傾倒」のみ経験 | 親の価値観で生きている |
自我同一性拡散 | どちらも経験していない | 自分がなく流されて生きる状態 |
これはこのサイトでもいつも引用している理論ですが、マーシャは、この自我同一性を確立するためには「危機」と「傾倒」という2つの条件が必要だと考えています。
「危機」とは、それまで当たり前だと感じて取り入れていた価値観に対して迷いを感じ、自分はこれでいいのかと考え始めること、「傾倒」とは、自分で選択したある特定の事柄に対し、興味関心を持ち、積極的に関わることです。
マーシャはこの「危機」と「傾倒」の組み合わせで、自我同一性を確立するまでには4つの段階があるとしました。このように、心理学の自我同一性をめぐる理論は「成長がある」という立場のものになっています。
そして、マズローの欲求5段階説も代表的な「成長ある派」の理論です。見たことのある方も多いですよね。
マズローは、人間の欲求には5段階のものがあり、もっとも基本的で低次にあるのが、生理的欲求、次に安全の欲求、所属の欲求、承認と自尊心の欲求、最後に自己実現の欲求であるとしています。
この欲求5段階説では、下位のものを満たさなければ、より上位の欲求は生じないとされていますので、やはりこれも「成長ある派」の理論ということになりますね。
晩年になって、マズローは自己実現の欲求の上に「自己超越の欲求」というものがあると考えるようになります。
自己実現の欲求が十分満たされると、人間は「至高体験」をし、強烈な幸福感を感じて、世界との分離感や距離感が失われ、世界と自分が一体であると感じると言うんですね。
このマズローの流れは、心理学の第3勢力を言われる人間性心理学というものを生み出し、その後自我を超えた意識を扱うトランスパーソナル心理学となっていきます。
このトランスパーソナル心理学は日本の心理学界では研究対象としては扱われていませんが、この代表的理論家のケン・ウィルバーの理論も「成長ある派」の理論となっています。
K.ウィルバー『万物の歴史』p113より
ウィルバーは世界を「内面的・外面的」「個人的・集合的」という要素によって、4つの領域に分けて考えます。外側に行くほど、発達の度合いが上がります。
まず左上は、個人の感覚や感情の発達、右上は生物学的発達、右下は社会的発達、そして左下が今この記事で述べている心理的発達です。図のケンタウロス的というのが、マズローの「自己実現」レベルに相当します。
また、ウィルバーは、前の段階を「超えて含む」ことによって次の段階が生じると考えています。原子と分子の関係のように、より低位のものがなければ高位のものは存在しないことから、この低位・高位というレベルは確実に存在すると考えるようです。
そして、「成長ある派」の最後はフロイトの弟子のC.G.ユングです。
ユング派も、中年期の危機で人間は自分と向き合い、自分の中にある「影(シャドウ)」やその他の無意識にある元型、自分の中の苦手な機能(直感・感覚・思考・感情)などを意識化して統合・コントロールすることが必要という考え方をします。ユングはこれを「個性化」と呼びます。
ただ、基本的な姿勢として、人間の意識や主体性よりも、魂、無意識というものに立ち返ることが重要という立場を取ります。
フロイトやエリクソン、マーシャ、マズロー、ウィルバーが意識的・主体的に上へ上へと向かおうとするという立場なのと対象的に、ユング派は無意識の声を頼りに下へ下へと戻っていくイメージが強いのです。
これも成長といえば成長なのですが、フロイト派とは大分違いますよね。
以上が「成長ある派」の代表的な理論です。
「重要視しない派」の心理学理論
では、「重要視しない派」の理論はどのようなものがあるのでしょうか。
「成長ある派」の最も基本的な理論であるフロイト派に対して、「重要視しない派」で思い浮かぶのは、彼の弟子ラカンです。
フロイトは、晩年「涅槃原則」という概念を持ち出し、自我を超えた一切の煩悩や執着が無くなった絶対的な安楽の境地について言及しています。
これはマズローの「至高体験」のレベルのことを言っていると思われますが、ラカンはそういうものに到達することは不可能と断言しています。
ラカンはこれを「現実界」と呼ぶのですが、「現実界」とは人間の生まれる前から存在する万物の源のような概念です。
人間は身体を持って生まれると、それをそのまま認識することができなくなり、その痕跡(対象a)しか見えなくなります。そして、それを「現実界」と思い込み追い求め続けるのですが、結局それは痕跡でしかないので人間の欲望は永遠に満たされない……
そう考えるのがラカンです。
ただ、ラカンにも成長に近い概念もあります。
「4つのディスクール」といって、人間の意識の状態には「主人の語り」「大学の語り」「ヒステリーの語り」「分析者の語り」という4つの状態があるとしていて、そのうち、精神分析者がもつ「分析者の語り」という意識状態になることが望ましいと考えるんです。
でも、ラカンは、個人にそのような違いはあっても、個人は言語構造に縛られそこから出ることができない存在だとしています。
そうすると、必然的に「個人の成長はあるがそれを追求してもあまり意味がない」ということになっていきます。
ポストモダン・ポスト構造主義と脳科学
そして1970年代から、ラカンのこのような立場を強化するような思想史上の流れが生じてきます。
ポストモダン・ポスト構造主義という考え方です。
モダンというのは「近代」という意味なので、ポストモダンとは「近代以降」ということになります。
近代は、「成長ある派」の理論のように、歴史とともに精神性が進歩していくとか、科学の進歩とともに豊かで平和な社会が到来するという進歩主義や、世界には何らかの根本法則や構造があり、それは認識可能とするという構造主義が主流だったんですね。
でも、1970年代になってもそうはなりませんでした。
そこで「価値観なんて人それぞれ」「世界に唯一の真理なんてない」という相対主義的な考え方が主流になっていったんです。
そして、ある一定の尺度で「成長」や「進化」「進歩」を測ろうとする態度にも疑念が持たれるようになりました。
なので、ポストモダン以降の現在の心理学では、研究分野は細かく細分化されていて、分野をまたがった意識発達の統一理論を探ろうという姿勢は歓迎されないし、そのような理論は見当たりません。
また、科学的観点から意識を探る脳科学が最近注目されていますよね。
脳科学では、心理的現象を脳の領域やニューロン、神経伝達物質などから説明することができますが、そうなると心理的現象は単なる脳の化学物質の働きにすぎないということになってきて、成長するかしないかなんてあまり意味がないものと思えてきます。
今後技術がさらに進化したら、それこそチップの埋め込みや遺伝子操作などで簡単に精神的成長ができてしまう時代もくるかもしれないと思う方もいるでしょう。
精神的成長と技術進化、どちらが重要か
さて、ここまで「精神的成長」をどう捉えるかについて様々な理論を見てきましたが、現在の社会的風潮は明らかに、個人の「精神的成長」よりも「社会の変化」、つまり、AIやVR、トランスヒューマニズムなどの「技術進化」が人類を救うという方向に行きつつあります。
でも、私は精神的成長なしに技術進化が起こったら、人類は逆に技術に支配されてしまうのではないかと思っているんですよね。
技術進化は歓迎すべきものですが、それよりも人類にとって本質的なのは「意識とは何か」という問題だと思うんです。
脳科学が発達してきたとはいえ、人間の意識についてはまだほとんど分かっていません。
量子力学の観測問題や素粒子を数式で表す時に使用する虚数の本質も明らかになっていないので、世界を構成している物質の正体についても本当はほとんど分かっていないんですよね。
つまり、世界がどのように成り立っているのか、実はどんなに有名で優秀な物理学者でも知らないんです。
ですから、本来は、「真理や構造はあるのかないのか」や「成長はあるのか意味がないのか」はまだどちらとは断定できないということになります。
フロイトやユング、エリクソン、マーシャ、マズローのように精神的成長が重要とするのか、ポストモダンのように真理なんかないんだから人間は人それぞれでよいとし、社会的システムを重要視し技術進化に邁進するのか。
これからの私たちの未来は、その選択によって大きく変わっていくように思います。