みなさん、こんにちは。春井星乃です。
先週10月21日(土)にイデアサイコロジー京都出版記念会が無事終了しました!
関西在住の方を中心に、北海道や新潟、富山、東京、神奈川、静岡、福岡などからも約50名の方にご参加いただき、私もイラスト担当の末富晶さんも、本当に想像の何倍も素晴らしい会になったと感じています。
今回ご参加できなかった方から「ぜひどんな会だったか聞きたい」というお声もいただいていますので、当日の内容を写真も入れながらまとめてみたいと思います✨
会場とタイムスケジュール
京都出版記念会の会場は、京都の左京区にある住蓮山安楽寺でした。
写真では拝見していましたが、実際行ってみると魂の底に響くような重厚さと全身を包み込むような暖かい雰囲気を肌で感じられる本当に素敵なお寺でした。
この安楽寺さんの雰囲気が、今回の会の成功を後押ししてくださったのは言うまでもありません。
最初はどこかの会議室を借りようと思っていたのですが、もしそうなっていたら今回の回は全く違うものになっていたと思います。
また、当日は晶ちゃんが素敵なお花を生けてくださいました✨
(以上3枚の写真は以下でお話しする「イデアサイコロジー座談会」に参加してくださった私のセッション受講者の方が当日撮ってくれたものです)
さて、当日は以下のような内容で13時30分から17時40分くらいまでの約4時間ほどの会でした。
🍎はじめのご挨拶
🍎春井星乃講演
「ヌーソロジーにおける自我の確立の重要性➖半田広宣氏の人生のイデアサイコロジー的分析」
🍎春井星乃&半田広宣対談
🍎「イデアサイコロジー座談会〜セッションを通して見た自我の確立とヌーソロジー〜」セッション受講者の皆さん&春井星乃
<お茶&お菓子休憩>
🍎末富晶講演&詩の朗読
🍎春井星乃&半田広宣&末富晶鼎談
🍎質疑応答
🍎「海花」歌唱
歌:末富晶
コーラス:春井星乃
音響:穂積リョウ
今回、司会は晶ちゃんのご友人でもある陶芸家の勇子さんにお願いしました。
勇子さんの軽快で楽しいご挨拶で会場の参加者の方々の雰囲気もほぐれ、まず私の挨拶、そして晶ちゃんの挨拶、広宣さんの挨拶と続きました。
春井星乃講演「ヌーソロジーにおける自我の確立の重要性」
最初の講演は、私の「ヌーソロジーにおける自我の確立の重要性–半田広宣氏の人生のイデアサイコロジー的分析」というテーマのものでした。
4月に出版した『「目覚め」への道の歩き方』は、簡単に言うと、ヌーソロジーにおける「変換人」に近づくための方法論を書いたものです。
この本でやはり一番言いたかったことは、ヌーソロジーや他の自我を超える手法(アセンション、悟り、覚醒など)を追求するときには、その前に自我の確立が必要だよということだったんですね。
そうでないと、色々な問題が起きてくるということを分かっていただけると嬉しいなと思っていました。
私がヌーソロジーに出会ったのは『人類が神を見る日』が発売された1997年の3月末の吉祥寺の本屋さんでした。
それから26年間ヌーソロジー界隈を見てきて、ヌーソロジーが本当に素晴らしいものなだけに(私の主観的な感想ですが😅)、「すごくもったいない」「くやしい」という思いがずっとあり、今回の本に繋がったという経緯もあります。
さて、そこでそれをみなさんにお伝えするには実際の事例をあげることがいいと思っていたのですが、本ではページ数の制限もあり、複数の事例を挙げることはできませんでした。
そこで、今回の出版記念会では複数の事例を通して「ヌーソロジー学習と自我の確立の重要性」についてお伝えしたいと考えたんですね。
そしてそれをお伝えするのに、もっとも適切でインパクトが強い事例はなんと言っても「変換人に一番近い男」半田広宣氏だったんですね😆
それを思いついた後すぐには本人に言えず、しばらくしてドキドキしながら「人生分析をしてもいい?」と聞きましたところ、「まあ、いいよ」と渋々OKしてくれました!
そこで、当日は、広宣さんの個人的なレベルの5つのフィルター「占星術的影響のフィルター」「遺伝的影響のフィルター」「エニアグラムタイプのフィルター」「乳幼児期・児童期の経験のフィルター」「中学生以降の経験のフィルター」をそれぞれ細かく分析していきました。
そして、その結果結局、広宣さんはヌーソロジーをやる前に、恵まれた条件と現実生活における努力によってあらかたフィルターをクリアしていたと言えるので、ヌーソロジーをするためにはやはりフィルターのクリアが必要だったのではとお話ししたんですね。
また、特にフィルターの内容にネガティブなものが多い場合(遺伝的に繊細、占星術的にネガティブな影響が多い、家庭環境が悪かったなど)は、ヌーソロジーだけでなくイデアサイコロジー的な対応が必要だというお話をしました。
春井星乃&半田広宣対談
私の講演の後は、この講演内容について広宣さんと2人で対談しました。
広宣さんに「自分の人生をまた改めて見ていかがでしたか?」と聞くと、やはりかなり照れ臭かったようでした。
でも、やっぱり自分の人生は特殊だったということ、イデアサイコロジー的な現実生活の自我の確立(フィルターの意識化とコントロール=フィルターのクリア)がヌーソロジー学習の準備段階として重要だというお話をしてくれました。
その後、ヌーソロジーが現実生活に役立つ面とその危険性、chat-GPTのヌーソロジー理解がすごいのは自我がないからではないかというお話をしました。
このchat-GPTの話から、やはりヌーソロジー理解には自我の影響の軽減(=フィルターのクリア)が必要なのではということになったんですね。
セッション受講者の方々との座談会
さて、広宣さんの人生分析の次は、私のセッションを受けてくださっている方4人に出演していただき、私と5人での座談会を行いました。
私がオンライン個人セッションをはじめたのが2021年だったのですが、この中の3人の方はその当初から2年以上セッションを受けてくださっているイデサベテラン勢です😊
この座談会を行うことにしたのは、先ほどお話しした「複数の事例を挙げたい」という理由ももちろんあります。
それに加えて、ヌーソロジーでは普段広宣さんや川瀬さん、天海さんなど講師の方のお話を聞くというスタイルが多いですが、やはり受講者の立場の方の話を聞くことも重要だなと思ったということもあります。
ですので、ここでは4人の方に、ヌーソロジーとの出会いや学習の苦労、イデアサイコロジーのセッションの流れと効果、ヌーソロジー学習との関係、他我化の問題などの話をしていただきました。
お茶&お菓子休憩と末富晶さんの講演&詩の朗読
安楽寺さんには、講演会の会場として使用させていただいたお部屋の他に喫茶室があって、今回は安楽寺さんのご厚意でそちらも使わせていただけることになりました。
座談会の後には、こちらの喫茶室に移動してみなさんでお茶とお菓子をいただきながら、交流を深めました。みなさん、とっても楽しんでいただいているようでした!
そして、次は晶ちゃんの講演となり、晶ちゃんのこれまでの歩みや生け花と「間」の話などをお聞きしました。最後には、私の本とほとんど同時期に出版された晶ちゃんの詩集から「夜の目」という詩を朗読していただきました。
春井星乃&半田広宣&末富晶鼎談
晶ちゃんの講演のあとは、私と広宣さん、晶ちゃんの3人での鼎談です。
ここでは晶ちゃんの話を受けて、生け花と詩を含めた芸術とヌーソロジー、イデアサイコロジーの話をしました。
ちょっと当日お話しした内容の一部を書いてみますね。
この出版記念会のちょうど1ヶ月前に、ナチュスピさんの動画を作ってくださったmeegleさんに「これからヌーソロジーとイデアサイコロジーとアートの3本柱でやっていきたい」という話をしました。
そうしたらmeegleさんが「それをお聞きして真善美の三位一体が思い浮かびました」というお話をしてくださったんです。
「真=ヌーソロジー、善=イデアサイコロジー、美=芸術・アートという対応ができるのでは」ということでした。
真善美の考え方はプラトンのイデア論から始まりますが、真善美と一括りにしたのは新カント派だとい言われています。
真善美は知性、意志、感性のそれぞれに対応する超越的対象であり、これを網羅すると精神の理想を実現した最高の状態になるということなんですね。
meegleさんから「でも善=イデアサイコロジーというのはちょっと違うでしょうか?」と聞かれたので、私が「"善とは他者との関係性の追求の結果生じるものである"と考えれば、イデサですよね」とお話ししたんです。
そして、それを今回座談会に出演してくださった方にお話ししたところ、ちょうどNHKの「100分で名著」で哲学者の西田幾多郎の特集があり、そのテキストに私が言ったことと同じようなことが書かれているということで、引用を送ってくださいました。
西田にとって、「個人」とは、つねに「他者」と共にある存在だったのです。
だからこそ、その開花が至高の「善」になる。むしろ、他者と共にいなければ真の「個人」にはなり得ないというのです。
「善」というものは、生きとし生けるものと直接向き合った時の行為の中においてのみ顕現すると西田はいいます。
頭で考えているだけでは「善」は顕われない。むしろ「悪」を生むことすらある。
イデアサイコロジーでは「目の前の他者との関係性にすべてが表れる」という考え方が基盤にありますので、そこが疎かになっているならば意識進化はあり得ないし、他我化を生むこともあると考えています。
なので、送っていただいた西田幾多郎の考え方は、ものすごくイデアサイコロジーとかぶっていたんですね。
西田幾多郎は広宣さんからよく話は聞いていましたが、こんなに同じことを言っているとはと驚きました。
この真善美から西田幾多郎の流れがすごく面白かったので、ぜひこれを鼎談で話そうと決めたんです。
そして、それを晶ちゃんにお話ししたところ、安楽寺から5分くらいの哲学の道に西田幾多郎の石碑があり、ご本人がそこをよく歩いて思索に耽っていたということを聞きました。
なんというシンクロ!とここでもびっくりしました✨
これを広宣さんに話したら、ぜひ鼎談で西田幾多郎の話をしようと開演前の短い時間に石碑を見に行ってくれました。
(これは広宣さんが開演前に撮ってきてくれた西田幾多郎の石碑の写真です)
以上のような流れを3人で楽しくお話ししたんですね。
もちろん、広宣さんが西田幾多郎とヌーソロジーのつながりについても詳しく説明してくれました。
また、私からは「ヌーソロジーを学習する際にはイデアサイコロジーとアートを三位一体で行うというシステムが作れればいいですね」という提案もさせていただきました。
そんな感じで鼎談が終わり、その後参加者の方からの質疑応答の時間となりました。
「海花」歌唱:末富晶&春井星乃&穂積リョウ
そして、最後は晶ちゃんの歌で締めとなります。
「海花」という曲で、これは晶ちゃんが20代の時にお兄さまと作った曲です(作曲:末富おうき 作詞:末富晶)。
実は、当初は晶ちゃんの詩の朗読で終わろうと思っていたんです。
でも、この会の数ヶ月前に、晶ちゃんがこの歌をYoutubeに上げてくださり、それを私が聞いて「ぜひこれを会の最後に歌ってほしい」とお願いしたんですよね。
最初は、やはり歌を歌うには伴奏やそれに伴う色々な機材、マイクの問題などがあるということで諦めかけましたが、スタッフとして参加してくれていた穂積リョウくんがちょうど音楽と音響をされていたという偶然の助けがあり、音源を作ってもらえることになって、私がお兄さまの代わりにコーラスを担当することにして、この形で本番を迎えました。
練習時間もほとんど取れず一発勝負で不安でしたが、終わってみれば参加者のみなさんから「歌が良かった!」「お腹の底に響いて涙が込み上げてきた」などの嬉しいお声をたくさんいただきました。
広宣さんも、普段あんまりそんなことは言わないのですが(元ミュージシャンなので音楽には厳しい😅)、「感動して泣いた」と言ってくれたのでめちゃくちゃ嬉しかったです。
(これはお寺のスタッフの方がたまたま撮ってくださった、歌を聞いて感動している広宣さんの後ろ姿です😆)
この曲の歌詞は「海も花も鳥も星も他の誰かのために何かをするだろうか」(いやそんなことはしない)「私が私であるほかに何ができるだろうか」(私は私であることしかできない)ということがテーマなのですが、
これはイデアサイコロジーの「自分のフィルターの意識化とコントロール」が幸せと意識進化の鍵であり、自分以外の他者や社会的立場や思想などと同一化してしまうことで早期完了や他我化が生じるという考え方を表現してくれていると捉えることもできると思っています。
と、こんな感じで、10月21日(土)の京都出版記念会は幕を閉じました✨