『奥行きの子供たち』第2章「新世紀エヴァンゲリオン」抜粋記事

2019年4月に『奥行きの子供たち―わたしの半身はどこに?』(VOICE)が出版されました。

この本は、『君の名は。』『新世紀エヴァンゲリオン』『ロード・オブ・ザ・リング』『マトリックス』『2001年宇宙の旅』という5大ヒット映画を取り上げながら、哲学・量子論・精神分析・心理学・歴史を通して、「人間の意識とは一体何なのか」、「人類はどこに向かうのか」という壮大なテーマを明らかにしていくものです。

経済格差や環境破壊など、行き詰まって希望が見えない現代社会の現状に、今までの常識とは違った新しい観点から突破口を見出す試みになっています。

この本は、半田広宣さん・まきしむさんとの共著で、まきしむさんがインタヴュアーとなり、3人の対話によって進む形式となっています。

ここでは、その中から、第2章「新世紀エヴァンゲリオン―2つのタナトスの狭間で」の春井星乃のパート「境界例と『エヴァンゲリオン』―庵野監督の心の世界―」をご紹介します。

この記事のテーマになっている「境界例」とは、心の病気の一種で、一般的には「境界性人格障害」と言われているものです。

イデアサイコロジーでは、境界例・境界性人格障害とは、エニアグラムのタイプ4の特徴がネガティブに表現されたものだと考えています。

この記事では、庵野監督と『エヴァンゲリオン』の分析を通して、イデアサイコロジーにおけるタイプ4の形成のされ方やタイプ4の特徴、そして、日本社会の意識変化との関係などについてかなり詳しく説明していますので、これを読んでいただければ、イデアサイコロジーの考え方がお伝えできるのではないかと思います。

他の章も気になるなという方は、ぜひ購入して読んでみてくださいね。

 

境界例と『エヴァンゲリオン』―庵野監督の心の世界―


70〜90年代の日本人の精神的風景—『エヴァ』の空気感—


まき いや〜、やっぱり『エヴァ』は何回観ても「なるほどわからん」ですね。でも、好きなんですよ。自分でもよくわからないんですけど。だからこそ、私がエヴァのどこに惹かれているのかも知りたいんです。もはやこの映画評論は自己分析にも近いんですわ。ファンの中にはそういう人も多いんじゃないかな? だから今回はぜひ星乃さんに心理学的な面から、半田氏にオカルト・神秘主義の面からエヴァを読み解いて欲しいんですよ……!

半田 最初から熱入ってるねぇ。僕は、90年代後半だったかなぁ、オカルト好きの友人に「ムチャクチャ面白いアニメがありますから、半田さんも是非観といた方がいいですよ」って言われて観たんだけどね。その友人が「深遠な哲学的アニメです」って言うもんだから、その期待で胸を膨らませているところに、いきなりペンギンが出てきたから、ひっくり返った(笑)。でも、回を追うごとに徐々に引き込まれていって、物議を醸した例の最終回もそれなりに楽しめたし、そのあとの旧劇場版と新劇場版の三部作もすごく面白かったけどね。

まき あの最終回は監督的にも消化不良だったらしいですからね。私もなんだかんだ両方楽しめましたけど。

半田 ただ、今の若い世代にはこの作品の意図はよく分からないんじゃないかな。やっぱり、当時の時代の空気感というのがあって、それがもろに反映されていた感じがする。確か、TV版の放映が始まったのが1995年だったよね。実は、この年に日本全体を揺るがすような大事件が起こってるんだけど、まきしむは何か知ってる?

まき ……コギャル現象ですね。

半田 うん、そうだね。孫ギャルというのも存在した。ソニプラのルーズがマストアイテムで、チョベリバ、チョベリグ………? って、違う、違う。僕が言いたいのは……。

まき オウム真理教による地下鉄サリン事件ですね。

半田 最初からそう言ってくれよ(笑)……そう、その地下鉄サリン事件。この事件が起こった1995年の3月から、教祖の麻原が逮捕されるまでの約2ケ月間というもの、TV欄は連日オウム関連の特番で埋め尽くされて、日本全体が異様な雰囲気になってたんだよね。ある評論家なんかは「一連のオウム事件以降、すべてのドラマ、映画が面白くなくなった」とまで言ってた。

まき 私は当時小学生だったので記憶がおぼろげですが、あの頃のオウムに関するTV報道のドラマ感はヤバかったですねー。ちなみに当時私のクラスでは、しばらく家のインターホンの鳴らし方を「ショーコーショーコー」のテーマ曲のリズムと完全に同期させる謎の流行が起きました。

半田 はは(笑)。子供は呑気でいいねぇ。大人の世界はもう大変。オウムは、教団ができたのは1984年なんだけど、90年代になって教団施設付近の住民とのいざこざが始まって、徐々に一般にも知られ始めたんだよね。70年代から90年代の始めというのは、新・新宗教ブームというのが起こってきて、新手の新興宗教が立て続けに登場してきた時期でもあった。幸福の科学とか、ワールドメイトとか、ラエリアン・ムーブメントとか。オウム真理教もそのうちの一つで、それこそ、かなりの勢いで信者を増やしていったのね。そこにきて、この地下鉄サリン事件でしょ。だから、その反動たるやすごいものがあったんだ。このオウム事件以降、宗教に嫌悪感や拒絶感を抱く人が激増して、宗教やっている人=アブない人という等式が半ば常識化していった。そういった時期にTV版の『エヴァンゲリオン』が登場してくる。確か秋頃だったと思うよ。


境界例的時代の境界例的な『エヴァ』


星乃 そうでしたね。今回、私も色々と『エヴァ』について調べたんですよ。それで、これは庵野監督の心の世界の話であり、しかも半田さんのおっしゃるように、『エヴァ』の作られた時代の風潮とも関連していると思ったんです。

まき ふむふむ。『エヴァ』は庵野監督の心の世界で、90年代半ばの風潮に関係していると。

星乃 たぶん、これは半田さんの言われていることと関係していると思うんですが、精神科医の斉藤環さんがちょうど『エヴァ』が出た頃の時代を「境界例的」な時代だとおっしゃっているんです。

まき キョウカイレイ的?……

星乃 境界例っていうのは、心の病気の一種で、正しくは境界性人格障害というんだけど、私はエヴァンゲリオンを見ていくうちに、これはめちゃくちゃ境界例的だなと思ったんです。斉藤環さんも「エヴァンゲリオンは境界例的」と言っています。だから、まさに『エヴァンゲリオン』は半田さんの言うように時代を映していた作品なんです。確かに80年代から90年代は社会的に心理学や精神医学がもてはやされ、ワイドショーのコメンテーターや事件の解説などに心理学者や精神科医が登場することが増えましたよね。私の時代は、心理学科は文系では一番人気でしたし。自分探しとか、自分と向き合うことが良いとされる雰囲気があったんです。精神科の敷居も低くなって軽症の患者さんも増えましたね。とにかく、自己理解がテーマになった時代だったんです。

まき そうすると、『エヴァ』が放映されだした90年代半ばは境界例的な時代であり、エヴァも境界例的な作品であると。

星乃 そうですね。境界例というのは、統合失調症を含む精神病と神経症のちょうど境界にある病気という意味で名付けられたんですが、斉藤さんが「境界例的な時代」と言っているのは、境界例の患者さんが内省的で、自己分析を好んでする傾向があるというのが主な理由なんだと思います。

まき ふむふむ。で、キョウカイレイって具体的にどんな症状なんですか?

星乃 境界例の患者さんは「見捨てられること」に敏感に反応します。そして、空虚感、抑うつ、怒り、孤立無援感、自暴自棄などの感情を持ち、それを緩和させるために周囲の人々の援助、愛情を渇望するんです。そのため、自殺未遂、リストカットなどを繰り返し、周囲の人たちを振り回してしまいます。通院されていない病識のない境界例の方は、自分の「見捨てられる不安」や周囲を振り回しているということに自覚はないかもしれないけれど、私がお会いした患者さんたちはご自分の症状に本当に苦しんでいました。でも、境界例の患者さんの思考や感情は独特なので、周囲の人たちはなかなか本人の苦しみを理解することができないんですよね。「自分は化け物のように思われているのかも」と言っていた患者さんもいました。

まき 化け物かぁ……。SNS上でもよく、精神を病んでいる方、いわゆるメンヘラと呼ばれる人に対しては「どんなに美男美女でも可哀想に思っても、容易に近づくな」と注意が促されてますよね。お話聞いていると、その中には境界例の方が多く含まれている気がしてきました…。

星乃 そうですね。そういう場合は専門家に任せた方がいいですね。でも、境界例の方も好きでそうなっている訳じゃないんです。いろいろなことが重なって、そうならざるを得ない状況が生まれてしまっているということは分かっていただきたいですけどね。

まき うんうん。

星乃 それでね、さっき、『エヴァ』は庵野監督の心の世界をそのまま描いたものって言ったでしょ。これは庵野監督ご自身もいろんなところで言及していることなんだけれどね。「魂を削って作っている」とか。旧約聖書やカバラ、グノーシス、死海文書などオカルトチックな用語をたくさん使っていますが、それはあくまで雰囲気作りでしかない。庵野監督も「衒学的(げんがくてき)」とご自分で言っているんだけど。

まき 「衒学的」って?

星乃 知識をひけらかす、自慢するためのものってこと。

まき なるほど。そういえば庵野監督が「適当に色んな要素つけただけなのに、設定マニアが勝手に盛り上がっている」って暴露してましたね……。当時深読みをしていたファンにとってはちょっと切ないですよね。

星乃 うん、当時のエヴァファンの人たちはそういうオカルト的な話や世界観の設定、キャラについての深読みをしていろんな批評が出回っていたんだけど、庵野監督自身は「違うのに」と思ってたみたい。

半田 話が面白くなってきたね。確かに庵野さんの中ではそういうことなんだろうけど、作家がどういう思いで作品を作ったかという作家論的な分析と、受け手が作品をどのように解釈したかっていうテキスト論的な分析のどちらもあっていいんじゃないの。だから、星乃さんは臨床心理士の経験もある方だから、徹底して庵野分析を行い、僕の方は設定マニア側の立場に立って、徹底してオカルト的な文脈を抉り出すってのはどうだろう。その二つの関連性が見えてくると、今までにはなかったタイプの『エヴァ』分析になるかもしれないしね。

まき なるほど!大抵どちらかで語られることが多い「作家論」と「テキスト論」の両方から攻めるとは、今までにない視点のエヴァ分析ですね!おらワクワクしてきたぞ。


エヴァは庵野監督の「心の世界」だった


まき じゃあ、まず最初に星乃さんに庵野監督分析をお聞きします!そのあと半田氏にオカルト的な分析をお願いして、最後に3人でまとめるという感じでいこうかな。で、さっそくですが、星乃さん、庵野監督の心の世界ってどういう感じなんですか?

星乃 そうですね、私は庵野監督ご自身が境界例的な方なのではないかと思っています。

半田 わぁ。いきなり。大丈夫?(笑)

星乃 え?だって、本当にそう思ったの……。

まき 笑顔でとんでもないことを……。神よ、どうかお許しください…(天を仰ぎながら)。えっと、つまり庵野監督がメンヘラだと…?

星乃 ううん、そうではなくて、あくまで「境界例的」。患者さんということではなく、世界観が似てるって意味です。そういうタイプの方は普通に結構いらっしゃいます。芸術家タイプの方に多いですね。斉藤環さんは「エヴァンゲリオンは境界例的だけども、庵野監督自身は発達障害とかの方が近いかも」と言っていたけど、私は庵野監督ご自身も境界例的だと思うの。今は結婚されて安定していらっしゃるのかもしれないけど、アニメが終わった後「愛を求める絶望的な叫び」を感じ、孤独に耐えられなくなって」自殺をしようとしたらしいんです。他にも何人ものスタッフに飲み屋で「自殺したい」と言うことがかなりあったと。

半田 それは、知らなんだ。

まき オタク界隈では有名な話みたいですけど、スタッフの前でいっちゃうのはスゴいよなぁ。

星乃 うん、それで本題のエヴァンゲリオンの話になるんだけど……エヴァの登場人物たちは庵野監督の分身なんじゃないかと思います。まず、シンジくんはそのままよね。庵野監督の中の中心的な人格。私は境界例の根本には「自分が消えてしまう」という恐怖があると思っているの。これは精神医学で教科書的に言われていることではなくて、私が患者さんと接する中で気づいたことなんだけど。そう考えると、境界例のいろんな症状がどうして生じるのかにすっきりと説明がつくから。普通の患者さんはそこまで自分の深い感情に気づいていない場合も多いんだけど、庵野監督は自殺未遂の時に「自分が消え失せてしまう恐怖」があったと言ってるの。だから、庵野監督は本当に鋭い感性を持っていらっしゃって、しかもそれを使ってとことん自分を追求する方なんだなと……それがあの才能にも繋がっているけど、だからこそ精神的に繊細にならざるを得ないってことなのかなって思ったんですよね。

まき あ〜、そういうことなのか。そりゃ、大変そうですね。

星乃 うん、だからね、境界例的な人は、自分が消えないために他人との絆が必要になる。他者によって自分の存在を繋ぎ止めてもらわないと消えてしまう。だから、他人から受け容れられること、他人との絆を求めるんです。シンジくんの「見捨てないで」「誰か助けて」「ここにいてもいい」「存在理由」とかはまさに境界例的ですよね。

まき なるほど。じゃあ、みんな大好き綾波レイは?

星乃 綾波は現実感のなさや空虚感の象徴かな。「消えてしまう恐怖」と常に向き合っていて、自分がこの世界に存在している感覚がなかったら、外の世界も現実感がなくなるんじゃないかと思うの。だから、何に対しても反応が薄い。関係の仕方がわからない。境界例の患者さんは現実感がなくなる「離人症」という症状も生じやすいの。それと同時に綾波はシンジの母ユイの遺伝子を引き継いでて、母の象徴でもあるわけなんだけど。

まき アニメでもよく「感情がないオレかっこいい」みたいな人物が持てはやされるけど、それって綾波が元祖な気がするんですよね。

星乃 うん、そうだよね。それは、また今度違う映画の分析をやるときにでも説明しようと思ってるんだけど、時代の流れ、日本の社会的意識の流れにも関係してるんだよね。庵野監督が綾波に持たせた意味と、綾波から派生した「無感情キャラ」が流行った理由というのは違うんじゃないかと私は思ってるの。

まき なるほど、それって『エヴァ』自体が庵野監督の表現したかったことと、アニオタの受け取った意味に解離があるっていうのと一緒かもしれないですね。そういや劇中ではシンジと綾波が融合して覚醒するって場面が結構あるんですが、それってどういう意味なんですか?

星乃 うん、ここで、境界例に大きく影響していると言われてる乳幼児期の話をしなきゃね。境界例は、フロイトの発達段階の中で最初の「口唇期」という時期(0~1歳半まで)との関連が深いと言われているの。実は、庵野監督ご自身も「自分は口唇期だ」っておっしゃっててね。さっきも言ったけど、そこまで自己分析しているのはスゴイと思ったし、私の分析もあながち間違いではないのかなと思いました。で、口唇期の世界についてなんだけど、赤ちゃんはまず、お母さんの胎内にいる時や生まれてすぐは自分というものがなくて、すべてと一体になっているのね。でも少し経つと赤ちゃんの世界は「自分」と「自分じゃないもの」という2つの世界に分かれてくると私は考えているの。これが口唇期の世界。

まき う〜ん……赤ちゃんの時の記憶なんてないからなー。中々想像しにくいけど、その時の自分ってどういう感じなんでしょうか?

星乃 うん、あくまで「自分と自分じゃないもの」しかない世界だから、「自分」と言っても外から見た自分の姿とかが分かるわけじゃない。快不快とか触覚の感覚の総体かな。そして「自分じゃないもの」とは大部分が母なんだけど、母と分かっているわけではないの。ぼやっとした「快不快をもたらしてくれるもの」という認識。この時期の赤ちゃんの快は口からもたらされるでしょ。お母さんのお乳を吸うから。だから、こういう世界では赤ちゃんの欲求は「自分じゃないもの=母」を飲み込むこと、それを取り込んで一体化すること。でも同時に「自分じゃないもの」に侵食されて自分が消えてしまうという恐怖も生じてくるんです。

まき 消えてしまう恐怖か、当然ながら覚えてないけど……。ということは、境界例はその自分が消えてしまう恐怖を大人になっても持ち越しているということですか?

星乃 うん、大人になっても口唇期の世界観を通して現実を見てしまうことで、「消えてしまう恐怖」が生じるということが、境界例的な人たちの根本にあるとわたしは考えているの。

まき なるほど、すごい納得しました。庵野監督なんてそのまんまですしね。

星乃 うん、でも今はDSM-5っていう世界共通の診断基準があって、「以下の項目から何個が当てはまったらこの病気」っていう診断の仕方なの。表面的に見える症状だけを見るのね。だから、その病気がどういう構造で生じるとかその人の人格の全体像とかはあんまり見ない傾向があるの。

まき それって患者さんの立場からしたらちょっと悲しいですね。もっとちゃんと深いところまで診てほしいというか。

星乃 ほんとにそうよね。だから、私は人格の構造から病気を見たいと思ってるの。ただ、現実問題として、現在の医療システムだと診察時間を多く取ると経営が厳しくなるという状況もあって、お医者さんも大変なんだけどね。

まき なるほど、そんな問題もあるんだ。それで、シンジと綾波の融合の意味はどうなるんですか?もしや……シンジってマザコンなのでは?

星乃 いやいや、マザコンってわけじゃないよ(笑)。説明するね。さっき、口唇期の赤ちゃんは「自分じゃないもの=母」を飲み込むこと、それを取り込んで一体化することを欲すると言ったでしょ。庵野監督が口唇期の影響を引きずっているとすれば、そういう母との一体化願望もあると言えるんじゃないかな。でも、その一方で、庵野監督にとって「母」は常に失われたもの、「失われた半身」なんだと思うの。なんでかというと、今言った「母」とは現実の母ではないから。あくまで口唇期における「自分じゃないもの」なんです。「母」との融合は永遠に叶わない望み。だからシンジの母ユイは亡くなっているという設定になってるでしょ。

半田 シンジが自分のことをシンジと知る以前に接していたお母さんってことだね。このお母さんは原理的にもう戻ってこない。というのも、シンジはもう自分のことをシンジだと知ってしまっているから。

星乃 はい、だからこれは通常言われているマザコンとはちょっと違うんです。母の代理としての綾波との融合は、そういう口唇期における一体化願望の表現じゃないかな。そして、現実の思春期男性として口唇期の「自分じゃないもの」を求めた時、それが「女性」として現れてくるわけです。それがミサトやアスカですね。彼女たちのような女性が庵野監督の理想の女性なのかも。どちらにしても依存対象ですよね。庵野監督自身「女性に依存して自分を維持」しているっておっしゃっていますし。そういう女性がいないと「消えてしまう」恐怖が襲ってくる。

まき これ庵野監督がご自分で言ってるからまだアレにしても、また怒られそうなネタを……。あ、そうだ。最初のインタビューでお話した「承認欲求」のことを今思い出したんですが、そのシンジくんのミサトやアスカに対しての思いは「承認欲求」とは違うんですか?

星乃 うん、傍目から見ると似ているように見えるけど、ちょっと違うと私は思う。私は、承認欲求には3つの種類があると思ってるんだよね。一つは、人類共通のもの。二つ目は、時代の流れの影響によって生じているもの。これはまた後で説明しようと思ってるよ。三つ目は、境界例的な世界観のように、乳幼児期の影響から来るもの。その乳幼児期での意識の固着の仕方で、また何種類にも分かれるの。例えば、まきしむが言ったような「孤独感・寂しさ」とか、「善い人と認められたい」「好かれたい」とか、「自分が優れていると認められたい」とか、境界例的な人々のように「消えないように、他者との絆を感じたい」とか。表面的には同じ「承認欲求」に見えたとしても、人それぞれ動機が違うんです。でも、まきしむが言ってた「承認欲求」とは、人類共通のもののことだよね。しかも、現代に特徴的なもの。

まき そうですね……私は、みんな同じ動機だと思ってました。孤独感や寂しさとかかと。

星乃 人類共通の承認欲求でも、孤独や寂しさから来るものだけではないよね。ただ人に認められたい、好かれたいっていうものもあるし。まきしむが言っている孤独は人間共通のものでもあるけれど、乳幼児期の固着のタイプから、特に孤独感に目が向きやすい人もいるんだよね。

まき え、じゃあ、そういうタイプの人は、より孤独感が大きいってことなんですか?

星乃 うん、大きいというか、他のタイプの人よりも「孤独感」に意識が向かいやすいと言った方がいいかな。まきしむはそのタイプかもしれないね。口唇期の次の肛門期に生じてくるタイプ。だから、孤独を避けるために周りを笑わせたり、楽しい雰囲気にするのとか得意でしょ?

まき うわ、そうかも。星乃さんに見破られてる(笑)。つまり、承認欲求にもいろいろあって、シンジくんのは境界例的な不安からくるものってことですね。そっか、シンジくんが「モテモテ」っていう設定はそこから来てるんですね。納得。

星乃 うん、そうかもね。だけど、アスカやミサトは、実際には口唇期の「自分じゃないもの」ではないし、全てが受容されるわけじゃない。それで「もうこんなの嫌だ」と思って、「じゃあどうしたらこの恐怖から逃れられる?」と考えた時、その究極の手段が「人類補完計画」、つまり原初の母との合一状態に戻ることだったんです。口唇期の「自分」と「自分じゃないもの」が分かれる前に戻ること。胎内回帰ね。お母さんの子宮に戻ること。もう一つがゲンドウの言う「神になる」事で。

半田 面白いね。「お母さんの子宮に戻ること」と、ゲンドウがいうその「神になること」ってのは、同じものなの?

星乃 いえ。これは後で半田さんにもお聞きしたいことなんですが、この2つは全く正反対の方向だと思うんです。

半田 うん、僕もそう思うんだよね。そして、その方向性の見極めこそがこの作品のオカルト分析の肝になってくる部分になるんじゃないかな。

まき 子宮と神が一体どんな関係にあるんですか?

半田 例えば、子宮は英語で「womb(ウォム)」って言うのね。これは言語学的には墓=「tomb (トゥム)」と深い関連があると言われているんだ。つまり、子宮というのは胎児が育つところではあるんだけど、同時に死後の世界とも深い関係があるってこと。洋の東西を問わず、古代人たちは死後には自分たちを産み出した神の世界に還ると考えていて、子宮に似た構造物を土や石でお墓として造っていたんだよね。日本の古墳の中にも結構あるはずだよ。

まき そういえば熊本の「オブサン古墳」は古墳のつくり自体が「妊婦さんが足を広げた形に似ている」といわれ、安産の神様とされているそうです。そもそも「産(うぶ)さん古墳」から転じたみたいだし。…ということはですよ?死後の世界と胎児の世界は繋がっているということですか?

半田 それは、まだ内緒(笑)。星乃さんの話を続けてもらおう。


超自我との戦い―成長と退行の反復


星乃 はい。もう一つ、フロイトの概念で『エヴァ』に大きな影響を与えているのが「エディプスコンプレックス」っていう概念なんですけど。

まき 「エディプスコンプレックス」って聞いたことあります。子供が父親を敵視して母親の愛情を得ようとするとか……。

星乃 うん、フロイトの発達段階は口唇期の次に肛門期、その次が男根期といって4~6歳くらいを指すのだけれど、男根期は別名エディプス期とも言うんです。このころの男児が父親を敵視して母親の愛情を求め近親相関的な願望を持つことをエディプスコンプレックスと言うの。その敵意によって今度は父親に去勢される恐怖を抱き、近親相関的願望が抑圧されるんですね。そしてそれによって今度は父親のようになろうという同一視が起きて、父を自分の中に取り込みます。これがフロイトの精神分析で「超自我」と言われるものです。

まき 超自我ってよく聞くけどなんのことでしたっけ?

星乃 超自我とは、心のなかにある善悪の基準とか「~すべき」とか、自分を上の立場から縛るような心の機能です。エヴァでいうとゲンドウがまさに超自我の象徴と言えるでしょう。社会や世間、常識、仕事、義務、責任の象徴です。

まき わたしが苦手なやつだ。

星乃 これもまた後で詳しく話すけど、特に若い人にはそういう人が増えたみたいだよね。でね、シンジくんにとって、ゲンドウは父として自分の存在を認めてもらいたい一番の他者でもあると同時に、超自我でもあるってことになるの。そして、シンジくんがエヴァンゲリオンに乗るということは庵野監督にとってはアニメ映画監督という仕事です。つまり、超自我の司令だよね。でも、いくら口唇期の世界を引きずっていたとしても、現実社会に生きるならば仕事や常識、義務、責任とは無関係でいられないよね。境界例的な人にとっては感情がまさに自分というものの象徴なので、感情を抑え込もうとする超自我、世間の常識や責任などは自分を消そうとするものに感じちゃうの。

まき なるほど~。だから父はなおさら敵として認識され、父を倒して母と融合したいとなるんだ。全国のお父さんが泣いちゃうわ。

星乃 ここでの父は、さっき言った口唇期の「母」と同じように、現実のお父さんとは違うかな。あくまで象徴の話。でね、普通エディプス期を経て子供は超自我を取り込んでいくんだけど、シンジくんはそうならないの。さっき話したように、境界例的な人には芸術方面の人が多いんですけど、下手に超自我を取り込んで常識人になってしまうと、面白い作品ができなくなるって思う人もいるんです。

まき あ〜、なんとなくわかる気がする。

星乃 そしてね、「自分が消えてしまう」恐怖から逃れる手段として、他者との絆以外にもう一つ、自分が唯一無二な存在になるっていうのがあるの。つまり、自分にしかできないことをする、個性的な人と思われるってこと。そうすると、ますます常識的な人になんかなりたくないって思うでしょ。患者さんだと、精神科に通ってるとか、リストカットしてるってこと自体が個性的、カッコイイってことになっちゃう場合もあって、なおさら境界例は治りにくいんですよね。

まき 「リストカットしてる自分カッコイイ」かあ……よく聞く話だけど、本当にそういうメカニズムなんですね。

星乃 それから、庵野監督が境界例的とするならば、今話したように「唯一無二の存在でありたい」「個性的でありたい」という欲求が強いはずなんだけど、綾波はクローン人間ですよね?クローンはいくらでも替えが利くわけですから、庵野監督は綾波を描くことによって唯一無二な存在には永遠になれない、消えてしまう恐怖と常に直面しているってことを表現しているんじゃないかと思います。

まき そっか、だから綾波は自分が存在している確信が持てずに現実感が持てないんだ。

星乃 そうね。そして、どんなに超自我がイヤでも、やはり仕事はしなくてはならないわけだよね。その葛藤が一番よく出てるのがTV版の第1話。自分を見捨てた父に急に呼び出されてエヴァに乗れと言われるけれども、シンジは恐怖を感じ拒否する。すると代わりに綾波が呼ばれて登場するが、彼女は傷だらけ。それを見たシンジはエヴァに乗ることを決断するって流れなんだけれど。

まき うん、そうでしたね。これが超自我と関係あるんですか?

星乃 これは父=超自我に感情を抑圧するような命令をされ拒否をするけれど、「失われた半身」、つまり自分を救ってくれる可能性のある女性を守りたいという感情が生まれ、その選択が超自我の命令と一致する。そうすることで社会から受け入れられ評価されるということを描いているように思うの。それにエヴァに乗るってことはシンジくんにしかできないことだから、これは境界例的な欲求をくすぐるものなんだよね。それが庵野監督の生き方なんだろうなと。

まき なるほど、でもそれは超自我を取り込んだことにはならないんですか?

星乃 うん、あくまで一致でしかないと思う。超自我を取り込むことを拒否しているような感じがするんです。シンジくんの代名詞ともなった「逃げちゃダメだ」のセリフも、超自我の声じゃない。自我が強迫的に自分に言い聞かせている感じ。庵野監督のスタッフの人が「ここでガンダムの監督の富野さんなら、『男なら、世界の危機を救えるのが自分しかいないのであれば乗るでしょ』と言うと思うが、庵野さんはそうならないらしい」って言ってました。それが、超自我が自分の中にあるかないかの違いですよね。

まき ふむふむ。

星乃 そうだ、一番わかりやすいのは、まきしむ『宇宙戦艦ヤマト』の歌知ってるでしょ?

まき はい、そりゃ知ってますよ。

星乃 あれを自分がヤマトの乗組員になったつもりで歌ってみて!今から流すから(笑)。

まき え?ちょっと待ってください心の準備が……

BGM「タ〜タッタタ〜タララッタッタタ〜♪」

まき 退路を断たれた……では歌わせていただきます。「さらば〜地球よ〜♪……(中略)……宇宙〜せんかん〜♪や〜ま〜と〜♪……」

半田 まきしむ、歌上手いね。ささきいさおそっくり(笑)。

まき これでも昔は趣味のバンドでギターボーカルやってましたからね!ってそうじゃなくて。えっと、なんか使命感に駆られていやいや歌いましたが、歌ってみたら「地球を救うぞ!」という気持ちと同時に、なんか誇らしいような高揚感を感じました。これがいわゆる超自我的な感じ?

星乃 うん、そう。いわゆる昔の「理想の男」像。自分を犠牲にしても地球を救うという「理想の人格」であるべき、そこに誇りを持とうと言ってるわけ。そう考えると『残酷な天使のテーゼ』が女性の歌手なのも意味があるかもね(笑)。

まき 確かに、「〜するべき」っていう圧力を感じなくて済むかも。


エロスとタナトス


星乃 でもね、この超自我を取り込まなくても、「エヴァに乗る」ことはシンジくんにとってはいい方向であることには違いないと思うんです。嫌々ながらエヴァに乗っていたシンジくんが、綾波や人々を救うために自分の意志でエヴァに乗るというシーンは何回かあると思うんですが、それが覚醒に繋がったりします。ミサトも常に「自分で決めるのよ」と言ってますよね。周りの意見や評価に流されずに、自分の意志で決めるということが成長の方向として描かれているんです。

まき じゃあ、人類補完計画は……逃げの方向なんでしょうか?

星乃 人類補完計画の原初の母との合一状態に戻りたいという欲求は、精神分析で言うとタナトス、その反対の自我を維持しようとする生の欲求はエロスと言えると思います。エロスは「生の欲動」、タナトスは「死の欲動」という意味なんですが、エヴァではリビドーとデストルドーと言い換えてますね。タナトスには「退行」と言われる逃げの方向と、自我を超えていく「超個的」な方向の2つの意味があるんだけど、シンジくんの場合はやっぱり「退行」の方かな。自我がはっきり確立されていないように見えるから。これは、さっき話した「胎内回帰」と「神になる」という2つの方向性と関係あると思うんですけど、半田さんはどう思いますか?

半田 そうだね。星乃さんが言ってるタナトスの二つの方向というのは、超自我から逃げたまま母との合一へと向かう「退行のタナトス」と、一度、超自我をしっかりと取り込み、その上で自我を確立して無意識との合一へと向かう「成長のタナトス」ということなんだろうけど、あと一つ、「消滅のタナトス」というのもあるかもしれない。

まき 消滅のタナトス?

半田 うん、虚無化への欲望とでもいうのかな。自我をネガティブな意味で消したいと欲すること。「成長のタナトス」が自我を超えていく死だとすれば、「退行のタナトス」は自我を保ったままでの死、「消滅のタナトス」は自我が持った主体性自体の死って感じかな。

星乃 その、主体性が消滅してしまう「消滅のタナトス」というのは、『エヴァ』では出てきてないですよね?

半田 そうだね。これは個的意識に現れてくるものというより、人類全体の意識に関わってくる問題だから、いずれ機会を見計らって詳しく話すよ。

星乃 なるほど……じゃあ、それはちょっと置いといて、エロスとタナトスの話に戻りますけど、シンジくんは「消えてしまう恐怖」を女性に助けを求めることで緩和させようとしますよね。そして超自我となんとか折り合いをつけエヴァに乗り、必死に自我を守ろうとしている。これがエロス的な行動と言えます。でも、やはり辛いので「退行のタナトス」の方向に退行して逃避してしまいたくなるんです。その究極が「人類補完計画」ですね。この繰り返しの中で、自分の意志というものを少しずつ確立していくというのがエヴァンゲリオンという作品の骨格なんじゃないかな。それが当時の庵野監督の心の中の世界なんですね。その中で必死に生きる葛藤と、成長と退行の反復の物語。

まき そうですね、劇場版『Air/まごころを、君に』では、シンジくんは全ての人間がLCL化(原初の生命のスープへの液体化)して一体になった時、やはり他者がいない世界は嫌だと言って、また自己と他者のいる世界に戻ってきました。それはエロス的行動ですよね。傷ついたとしても他者との絆を求めて生きたいと思うようになったんですね。そして賛否両論を生んだアニメの最後には「ここにいてもいいんだ」となる。

星乃 そうね、自分は消えない、「ここにいていいんだ」と思えるようになる。それが境界例的な人が安定を得るために必要なんですね。

まき なるほど。「ここにいてもいい」っていうのは、そういう意味だったんだなぁ。


口唇サディズムと酒鬼薔薇聖斗


半田 でも、同じ劇場版の最後のシーンはどう考える?融合状態から戻ったシンジが隣りで横たわっていたアスカの首を絞めるという。あれって、結構、謎だよね。

星乃 はい、それなんですけど、私はやはりフロイトの口唇期で読み解けると思っています。シンジくんはそれまで「助けてよ」「僕を見捨てないでよ」「優しくしてよ」と他人に受け入れられ認められることによって安定を保とうとしていたのですが、あの最終シーンの前にアスカに拒否された過去の回想シーンがありますよね。シンジくんが唯一生きる手段は受動的に女性から庇護されること、つまり「失われた半身:母」に包まれることだったのにそれが不可能になった。そうすると、今度は一転して能動的、攻撃的になる。自分が他人を飲み込む、食べる=殺すことによって他者を自分に取り込むしかなくなるんです。シンジくんにとっては同じことの裏表なんですよ。自分が存在するために必要なこと。

まき なるほど。そういえば、エヴァが使徒を食べたり、劇場版でもゼーレの量産型エヴァが2号機を食べていましたね。それも庵野さんの中ではそういうことの表現なんでしょうか。

星乃 そうかもしれませんね。これを口唇サディズムと言うんです。1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件は知ってますよね。酒鬼薔薇聖斗と名乗った14歳の少年が複数の小学生を殺傷しました。この事件は口唇サディズムを説明するには一番わかりやすい事例ではないかと思うんです。たぶん境界例的な人の中でも、究極の深い闇を持った人間と言えるんじゃないかな。

まき あ〜、なんとなく覚えています。

星乃 彼の言動を見ると、庵野監督の中に出てくるキーワードがすべて出てくるんです。例えば警察への挑戦状にあった「透明な存在」という言葉。のちに開設したホームページの題名も「存在の耐えられない透明さ」だったんだけど、これは境界例的な「消えてしまう恐怖」からくるものだよね。さらに「周りの人が野菜に見える」という離人症的感覚や「胎内回帰願望」を持っていました。そして、殺人衝動が芽生えたきっかけが、唯一、彼が信頼し愛情を受けてきた祖母の死だったの。

まき ほう。祖母の死がどうして殺人衝動になるんですか?

星乃 彼にとって祖母だけが現実と自分を繋ぎ止める「錨」だったらしいんです。シンジくんがミサトやアスカに求めた「愛情」をくれる存在だったわけです。それによって、かろうじて人間として現実世界に存在していられた。でも、それが無くなった途端、殺人衝動が芽生える。これはシンジくんがアスカに拒絶されて首を絞めたのと同じことのように思えるんです。つまり、他者を食べる=殺す=取り込むことによって一体化すること。現に彼は被害者が自分だけのものになった満足感を感じたと言っていますし。

半田 なるほど。酒鬼薔薇事件って、すごく自己顕示欲がむき出しの事件だったよね。小学生を殺してその頭部を校門に晒すだけでなく、その口にメモを挟んだり、新聞社に犯行声明文を送ったりしていたでしょ。もともと「酒鬼薔薇聖斗」という名前自体が捜査の攪乱を意図したフィクショナルな人物名だしね。酒鬼薔薇が境界例的だとして、そんなに演出に凝る理由は何なんだろうか?

星乃 まず、新聞社に犯行声明を送ったのは、今までお話ししてきたように、他者に認められることによって自己の存在を確立したいからだと思うんです。他者によって唯一無二の存在として認められれば、「消えてしまう恐怖」から逃れられ「透明な存在」ではなくなるからです。実際、彼はニュースで酒鬼薔薇をオニバラと読み間違えられたことに非常に強い怒りを持っていたみたい。境界例的な人には独特なセンスがあって、彼にとっては「酒鬼薔薇聖斗」が自分のセンスにぴったりくるものであって、一文字違っただけでもそれは自分ではないんですね。メディアの中で酒鬼薔薇聖斗という名前を耳にすることで彼は自分の存在を感じられるのに、その機会を奪われたということなんじゃないかな。2015年にも『絶歌』という犯行や半生を描いた本を出版していますよね。演出を凝るのも、基本的には「消えてしまう恐怖」から逃れ、唯一無二な存在になるためなんじゃないかと思うんですよね。彼なりの魂の表現であり、そのための自己プロデュースなのではと。


超自我への反発


まき なるほどね〜。でも、なんで庵野監督は最後にあのシーンを持ってきたんでしょう?せっかくシンジくんが傷ついたとしても他者のいる世界を選択したのに。

星乃 うん、やっぱり庵野監督は「人間は変わらない」「(絶対的な)成長なんてない」ということが言いたかったんじゃないかな。これもある意味、超自我への反発とも言えるかもしれないよね。人間とはこうあるべき、理想の自分になるということへの反発ということ。

まき なるほど。そういえば『エヴァ』の今度の新作の副題は、楽譜の「繰り返し」のマークでした。庵野監督の世界の枠組みの中での「成長と退行の反復」ということなんですかね。でも、本当のところはどうなんですか?絶対的な成長なんてないんですか?

星乃 私はそうは思ってないです。庵野監督が不可能だと思っている、その「成長」の向こうに何があるのか、ゲンドウが目指した「神になる」ということ、つまり本当の自分の半身との融合が何を指しているのか、その正体をいろんな角度から探っていきたいですよね。

半田 そうだね、これからそれを明らかにしていかないとね。

まき 楽しみ〜!

星乃 でもね、私は『エヴァ』がこれだけヒットした理由の一つが、この「超自我への反発」なんじゃないかと思っているの。どこかで「『エヴァ』がヒットしたのは、若者の、社会に出て仕事をするということへの不安を表現しているからだ」という批評を見てね。

表面的にはそうとも言えるんだけど、その奥にあってエヴァファンを本当に惹きつけたのは、今まで当たり前と思われて、無意識に圧力を感じてきた超自我の義務や常識に対して「ちょっと待てよ」と初めて疑問を投げかけたということなんじゃないかと思うの。そして、さっき、ちょっとだけ話したけど、超自我の1つの機能である理想の人格を目指す、男らしさの強制などへの反発も代弁していたのではないかと思う。『宇宙戦艦ヤマト』的な世界への、ね。『エヴァ』は、エヴァファンにとってはまさに「君はそのままでいいんだよ」というメッセージになっていたんじゃないかな。

まき なるほど、若者たちが無意識に感じていた「超自我への反発」を形にしてくれたのが『エヴァ』ということですかね。そう考えると、『エヴァ』ってやっぱりすごいな。

星乃 そういう感じがします。日本人の意識の流れを考えると、本当に『エヴァ』って重要な潮目だったと言えると思うんです。1995年の地下鉄サリン事件で「現実に歯向かうのはカッコ悪い」という雰囲気が作られ、現実は個人にとってリスクを取ってまで抗う価値はないものとなってしまった。だったら、虚構で楽しんだ方がいいと。現実とは、社会のシステム、常識、共有された価値観の総合のようなものですから、超自我と言い換えることもできます。この現実=超自我の価値や重みが、ポストモダンの影響もあって、90年代半ばから減少し始めたんです。

まき ポストモダンって?

半田 モダンというのは「近代」という意味。だからポストモダンは「近代以後——」って意味だね。近代は進歩史観というのかな、歴史とともに人類の精神性が進歩していくとか、科学技術の発達のもとに豊かで平和な社会が到来するとか、そういったことが信じれた時代だったのね。でも、待てど暮らせどそうはならない。だから、それって幻想じゃね?という話になってきた。こうなると、人々の関心は人類や社会がどうこうといった大きな物語の方には向かわなくなるよね。「価値観なんて人それぞれでいい」っていう相対主義が蔓延して、もはや、人間全体を導いていくような正義や真理の存在を信じなくなったってことだね。それが「近代以後——」としてのポストモダンの意味だと思うといいよ。

星乃 そうですね、そうやって人類共通の価値や真理なんてないとなると、当然、社会で共有されている「こうあるべき」という超自我の重みが減少します。そこで初めて、若い人たちが「別に超自我の言うこと聞かなくてもいいんじゃね?」という声をあげられる隙間ができたということなのかもしれません。ちょうどこの年に、現実=超自我への反発を扱う庵野監督の『エヴァンゲリオン』が大ヒットしたのは、本当に象徴的だと思います。まきしむは社会学者の宮台真司さんって知ってる?

まき はい、なんとなくは。


戦後の日本人の意識変化


星乃 その宮台さんがね、戦後の日本人の意識変化について、かなり鋭い分析をしてたんですけど、『エヴァ』の意味を理解するのに役立つと思うから、ちょっと紹介してもいいですか?

半田 もちろん。今の僕らの意識の現状を考えるためにも重要なところだよね。

星乃 宮台さんによると、戦後1945年から1960年までが「秩序の時代」で、これは今までお話してきた超自我的な、善悪の価値観が強かった時代です。

1960年から1970年代半ばまでが「未来の時代」で、これは半田さんがさっき言ってたように、未来や科学が全ての問題や不合理から社会を救ってくれるんじゃないかっていう科学万能信仰の時代って感じかな。そして、1970年代半ばから1995年までは「自己の時代前半」、1996年からは「自己の時代後半」。

まき なるほど。で、その「自己の時代」っていうのは?

星乃 「自己の時代」とは、今までお話してきた「境界例的な時代」とほとんど同じ意味だと思うんだけど、自我の維持が生きる上で大きな価値を持ってきた時代のこと。シンジくんやその他の登場人物が必死で追い続けていたものだよね。

まき 確かに。今は、社会共通の価値というよりも、個人の自我の維持が目的になっていますね。じゃあ、前半と後半では何が違うんでしょ?

星乃 そうですね、これが私がさっき話した「超自我=現実」の価値、重みの減少ということと関わってくるの。宮台さんは1996年から「現実は虚構よりも重いという感覚が急減した」とおっしゃっています。現実=超自我とすれば、今の人達は、「理想の人格」「男らしさ」などの成長の方向の超自我の価値を追求したいというモチベーションを持ちにくくなっているんじゃないかと私は考えています。

まき なるほど、それはネットを見ているとすごく感じます。『エヴァ』を境に若者たちが「超自我なんかクソ食らえ!」という価値観を持ったということですね。今は若者の間では「努力しないで成功する」というアニメやライトノベルが流行っていますし、とにかく「〜するべき」という考え方に反発している感じがしますね。

星乃 そうですね。シンジくんと同じように、超自我が取り込めない。でも、それは若者だけではなく、人類全体の傾向と言えるかもしれません。「モンスター・ペアレント」とか「ヘイトスピーチ」なんかも、人間の「こうあるべき」という理想像が消えてしまったことによって助長されているんじゃないかな。


シン・ゴジラとエヴァンゲリオン


まき ん〜、となると、同じ庵野作品でもある2016年に公開された『シン・ゴジラ』も気になりますね。『エヴァンゲリオン』から20年以上経っていますが、これも庵野監督の心の世界が描かれている作品なんですか?

星乃 それが、面白いくらいにそうなんです。宮台さんも、2017年に出版された映画批評本『正義から享楽へ』の中ではっきりとおっしゃってるんだよね。

「米国が父(碇ゲンドウ)。日本が息子(碇シンジ)。特使が米国から遣わされた母。『エヴァンゲリオン』では、シンジ以外のエヴァ搭乗者(綾波レイとアスカ・ラングレー)は父から派遣された母です。その母の入れ知恵で息子は父の策略から脱します。〜中略〜本作はゴジラを使徒としたエヴァ続編なのです。」(「正義から享楽へ」p.330)

半田 そりゃ、面白い解釈だ。宮台さん、鋭いね。

星乃 そうなんです。「エディプスコンプレックス」とか「人類補完計画は子宮回帰」ともおっしゃっていて、宮台さんも私と同じことを考えていらっしゃったみたい。

まき そうなんだ。でも、「消えてしまう恐怖」とか「口唇期の特徴」とか、境界例的ということで『エヴァ』を庵野監督の心の世界で説明したのは、星乃さん以外に見たことないかも。

星乃 そうですね、斎藤環さんも「庵野監督自身は境界例的ではない」とおっしゃっているし、そういう分析はされてないみたい。庵野監督ご自身は、ある女性漫画家に「庵野さんは統合失調症」と言われて喜んだってエピソードがあるので、「境界例的」って言われたらあんまり嬉しくないかもしれないけれど(汗)。

まき 統合失調症って言われて喜ぶっていうのもよくわからないけど(笑)。で、さっき言ってた「ゴジラは使徒」っていうのは?

星乃 そういえば、使徒のことは話してなかったですね。使徒=ゴジラとは「超自我=社会・現実を破壊するもの」です。この現代社会を生きる私たちにとって、超自我=社会・現実はなくては困るものだけれども、永遠に縛られ続ける窮屈な存在です。特に境界例的な庵野監督のような人々にとっては。それを破壊するものは、怖いけれども何とも言えない爽快感を与えてくれます。

半田 ラカンのいう「破壊の享楽」というやつだね。

まき 破壊野享楽? 落語家さん……?(笑)

半田 はは、「享楽」というのは、普通の快楽を超えた、より本源的な強烈な快楽のようなものと考えるといいよ。ラカンは象徴的秩序を崩壊させる快楽という意味で使ってる。

たとえば、さっきの地下鉄サリン事件なんかでもいいんだけど、非日常的な大事件が起きて世間がテンヤワンヤするときって、もちろん不安感や恐怖心も掻き立てられるんだけど、それを上回るような、何かゾクゾクした得体の知れない快感みたいものを感じたりもするよね。それが破壊の享楽。

まき なるほど。そういえば、庵野監督は宮崎駿監督の『ナウシカ』に出てくる巨神兵の映画も撮ってましたよね。それも、もしかして超自我の破壊者ってことなんでしょうか。

星乃 うん、そうだと思う。宮台さんも『正義から享楽へ』の中で、巨神兵も破壊の享楽をもたらすものとして扱ってたし。

まき やっぱり庵野監督は超自我を破壊してくれるものに惹かれているんですね。ある意味一貫してるなー。庵野監督にとっては、ゴジラ・使徒・巨神兵は自分を縛るものから解放してくれる、ある意味、神のような存在なのかも。石原さとみ扮する米国大統領特使が、ゴジラのことを「まさに神の化身ね」って言ってたし。オカルト好きが人類滅亡の予言を好きなのもそれに近かったりして。

星乃 うん、それと同時に『エヴァンゲリオン』という作品自体が、時代の流れの中で超自我の破壊の象徴として働いていたんじゃないかと私は思ってるの。そう考えると、庵野監督は『エヴァ』によって、ご自身が惹かれている破壊の享楽をもたらすものに既になっていたとも言えるかもしれませんね。

まき なるほど、庵野監督自身が実は、日本社会にとっての「使徒・ゴジラ」になっていたのかもしれないってことですね。境界例的な時代の、境界例的な「超自我への反発」を描いた『エヴァ』が、日本社会の超自我の減退を象徴していたとは。時代の要請と庵野監督の心理傾向がバッチリ共鳴したということですね。