こんにちは、末富晶です。
少し前に、春井星乃さんが「自我同一性」を確立するには?という記事をアップされていました。
イデアサイコロジーはこの時代を生きる多くの人にとって必要なものだと私は感じているのですが、その理由の中でも特に大きなものが、この記事にぎゅっと凝縮されていると思います。
どれくらい昔からか、私はほんの小さな頃から「大人になるってどういうことなのだろう」という疑問を長年にわたって連れ歩いていました。
年齢を重ねるうち、身体は日々、子どもから大人に向かって成長していくけれど。
大人と呼ばれる人が引き起こしたとされる事件のニュースや、そこまで大きなことでなくとも、通りすがりの大人たちのまさに「大人げない」態度に出会ったりするうちに、どんなに楽観的に考えようとしても心の方はどうやら身体のそれとは何かが違うらしいと感じざるを得ませんでした。
大きくなるうち、「人間とはしょせんそんなものだよ」という声もあること。いえ、むしろ、その声の方が多数派として世界を包んでいるらしいこともまた知りました。
自分の心がコントロールできるような人間性はもともと与えられた特別な才能か、もしくは長い精神的修行を越えた経験を持つごく少数の人のみが獲得しているものであって。
一般人はそんなことについて深く考える必要はなく、感情に振り回されるのは当たり前。表面をどんなに取り繕って綺麗に見せていても、みんな中身はドロドロしたものを抱えていて、いざとなれば自己中心的に動くものだと。
なるほど確かに。自分自身を省みても、そういう部分は恥ずかしながら見受けられて。それは違うとは言い切れず、「人間とはしょせんそんなものだよ」説を一度は受け入れそうにもなったのですが。
だけどそれを受け入れようとすると、今度は本気で、大人になるのが嫌になってくるからさて困った。
世界を包み込んでいるように見えるその諦めに身をゆだねるとはつまり、心の成長はさほど重要視せず、ただ社会の中の一員として常識を守って日々を過ごせればよいということに思えて…。未熟な心を持ったままに身体が老いていくに任せるのみという、あまり嬉しくない未来を想像してしまったのです。
そうなってくるともう、子どものままでいられた方がいっそどれだけマシだろうと思えました。輝かしい子ども時代の夢の中に浸っていれば、いきいきと幸せに暮らし続けられるような気がしたのです。
もしその時の私の元にピーターパンが訪れていたら、きっと迷わずネバーランドについて行ってしまったことだろうと思います。
実際にはもちろんそうしたことは起こらなかったので、とどめようとしても過ぎ去ってしまう時間に焦りを覚えながら、少しずつ子ども時代を終えていくことになるのですが。
だけどその時の私が、もし、本当の意味で「大人」になる確かな道というものがやはりこの世には存在しているのだと知っていたなら、きっと子どものままでいたいという気持ちにはならなかったことでしょう。
星乃さんの説明してくださっている「自我同一性を確立する」ということは、まさにその道を進んでいくことなのだと思います。
気づいた時にはすでに「私」としてこの世に存在していた私は、「私」として当たり前に物事を見聞きし、体験し続けているけれど。
その「私」にもその時ごとの段階というか、状態の違いがあって。
本当の意味で大人になるには子どもの頃の「私」の視点を、どこかで一度、はっきりと抜け出す必要が出てくる。
それがないまま身体だけ成長しても、実はそこに大人の自分は不在なままとなってしまうのですね。
「人間とはしょせんそんなものだよ」説の弊害は、そうしたことに気づけず成長の途中で心を置き去りにすることで、本当の意味で大人になり損ねる方向に人々を導いてしまうことにあると言えると思います。
自分の心の在りかを忘れてしまうと、社会という大海原を渡る船乗りとして操縦は完璧なのに一番肝心なその船の行き先を全く忘れてしまっているというような、本末転倒な事態に陥りかねません。
本当に大事なことは操縦テクニックの優劣ではなくて、その船乗りの胸にあたたかな心が生きているかどうか。
誰の人生なのか本当の意味で知っていて。
どう生きたいのか、命を燃やすことに明確な意思があることなのではないでしょうか。
今の私は、自我同一性の確立を経て本当の大人になることは、多くの人の人生にとって欠かすことのできない最重要課題だと感じています。
もちろん口で言うほど簡単なことではないし、実現不可能と思われても仕方がないとも感じるけれど。
一人ひとりがしっかりと自分の心とつながって、本当の大人となった人々のつくる時代が、この先やって来ないとも限らない。
現代の様々なことが本当に行き詰まっている状況にあっては、むしろもうこの方向にしか道は残されていないとも思えるのです。
少しでも可能性があるならそこに向かっていきたいと、私自身は感じています。
自我同一性が確立されていれば自然と解決に向かう問題が、個人的にも社会的にも、目に見える場所にも見えない場所にも、きっと広く根を張っていることでしょう。
それぞれが本気で自分の心と向き合っていくことは、その禍根を一つずつ、けれど確実に断ち切っていくことにもなる。
遠回りなように見えて、唯一たしかな道。
それはきっと、本当の大人にならなければ進めない方向にある。
自我同一性達成はゴールではなく、実はそこからこそが、新たな人生の始まりと言えるのかもしれません。