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こんにちは、元臨床心理士の春井星乃です。
現在は、心理学・精神分析・エニアグラムを通して性格構造を明らかにする「イデアサイコロジー」を提唱しています。
「鬼滅の刃」がジャンプでの連載を終了した5月に、「『鬼滅の刃』大人気の本当の理由とは?新ジャンル「役に立つメンヘラ」説」という記事を書き、たくさんの方に見て頂きました!本当にありがとうございます。
そして、10月16日に劇場版「鬼滅の刃」無限列車編が公開され、10日間で興行収入100億円達成という日本映画史上最速の記録を打ち出しました。
5月の記事では「エヴァと匹敵するような時代を映す作品」とお話しましたが、本当にエヴァと匹敵するかそれ以上の社会現象になりましたね。
ネット上には他の「鬼滅の刃」の考察記事もいろいろと出てきましたが、その中で、最近、小山晃弘さんの「「鬼滅の刃」に女性が熱狂する理由」というnoteの記事が話題になっていました。
小山さんの記事の、「鬼滅の刃には「欲望の否定」と「規範意識」がある」という点には心理学的に見ても同様に分析できるので面白いと感じたのですが、「そのような男性像を女性が求めているからヒットした」という点は、性の問題に寄せすぎではないかなと思いました。
5月の記事では「鬼滅の刃」という作品そのものの分析が中心で、それが一般大衆にどう受け取られるかという面に対してはあまりお話していませんでしたので、今回の記事では、この「「鬼滅の刃」に女性が熱狂する理由」をご紹介しながら、「鬼滅の刃」が一般大衆にどのように受け取られているのかという観点からヒットの要因について、もう一度考えてみたいと思います。
☆5月の記事を読まなくても分かるように書いていますが、できれば5月の記事を読んでからお読みください。
「欲望の否定」「規範意識」は「早期完了」の意識状態
鬼=欲望は自我同一性達成に必要不可欠
他者の時代に即した「早期完了がカッコいい」というメッセージ
「エヴァ」と「鬼滅」の作品自体の意味とメッセージ性の解離
実は鬼こそ救世主だった
「「鬼滅の刃」に女性が熱狂する理由」の内容
では、まず小山晃弘さんの「「鬼滅の刃」に女性が熱狂する理由」をご紹介しましょう。
小山さんによると、鬼滅の刃にはまず「欲望の否定」「欲望の排除」という構造があって、その上で「男なら耐えろ」「男なら弱いものを守れ」という規範に従って生きることをよしとする物語であるということです。
そして、そのような男性像が女性に求められているから「鬼滅の刃」はこのような大ヒットとなったと書かれています。
主人公の炭治郎が典型ですが、彼には利己的な欲望が一切ありません。
そして興味深いことに、敵サイドの鬼たちはみな我欲を持つキャラクターです。
(鬼は)みな何かしらの「欲望」を持っており、しかもそれが自分ひとりの中で完結している。しかしそれは邪悪なものとして否定され続ける。
なぜ炭治郎は一切の欲望を抱かず、ひたすら自己犠牲のみの人生を送る羽目になったのか。なぜそれが読者の熱狂を以て迎えられたのか。その答えは、そのような在り方が読者に(特に女性読者に)求められていたからだと思うのです。
◉小山晃弘「「鬼滅の刃」に女性が熱狂する理由」
「欲望の否定」「規範意識」は「早期完了」の意識状態
みなさん、どう思いましたか?
私は、この小山さんの「欲望の否定&排除」「規範意識」という点は、心理学的に言うと、5月の記事で書いた自我同一性地位の中の「早期完了」の意識状態と重なるものだと考えています。以下に5月の記事を引用しておきますが、すでにお読みの方は飛ばしてくださいね。
星乃:このセリフ(「長男だから」)って、「自分は家族の役割に同一化しています」って宣言なんですよね。これって、心理学的にはどう見ても親や家庭の価値観を取り入れてしまっていて自我同一性(アイデンティティ)が確立できてない状態なんです。
また説明になっちゃうけど、「自我同一性」とは、これまでもこれからもこの自分であるという「一貫した自分」や「これこそが自分自身だ」という感覚のことを指します。人間は13〜14歳前後から自我同一性確立への課題に向き合うことになるんです。
まき:ふむふむ。
星乃:で、心理学者マーシャは、この自我同一性を確立するためには、「危機」と「傾倒」という2つの条件が必要だと考えたの。
「危機」とは、それまで当たり前だと感じて取り入れていた価値観に対して迷いを感じ、自分はこれでいいのかと考え始めること、「傾倒」とは、自分で選択したある特定の事柄に対し、興味関心を持ち、積極的に関わることです。
そして、マーシャはこの「危機」と「傾倒」の組み合わせで、自我同一性を確立するまでには4つの段階があるとしたの。それが「自我同一性達成」「モラトリアム」「早期完了」「自我同一性拡散」です。炭治郎はこの中の「早期完了」の状態と考えられます。
まき:えっと、その「早期完了」っていうのは、どういうことなんでしょうか?
星乃:うん、早期完了というのは、児童期に親や家庭環境の影響が強すぎると、13〜14歳ころになっても危機を経験せず、親や家庭環境の価値観をそのまま自分の生き方として取り入れてしまって、本当の自分の人生を生きられなくなるって状態のことを言います。
◉「鬼滅の刃」大人気の本当の理由とは?新ジャンル「役に立つメンヘラ」説
5月の記事では、13〜14歳になると、乳幼児期に作られた認知様式(境界例的なものも含む)が欲求や不安やさまざまな感情として湧き上がってきて、そのパターンを意識化すること(「傾倒」)が自我同一性を確立するために必要だとお話しました。
でも、「早期完了」の状態になってしまうと、その心の奥底から湧き上がってくる欲求・欲望を抑圧してしまって感じ取ることができなくなってしまいます。
そして、そのかわりに、親の価値観や家庭環境で作られた役割に同一化して、それを自分として生きるようになるんです。
精神分析の創始者であるフロイトは、6歳から12歳の児童期のことを「潜在期」と言っていますが、その時期は欲望や衝動が表に出てこなくなります。そして、そのかわりに、社会的な規範やコミュニケーション能力を身につけることが課題になるんですね。
つまり、「早期完了」の意識状態とは、この潜在期=児童期の意識状態のままで生きる状態なんです。
まさに、小山さんのいうように、「欲望の否定」「規範意識」を重要視する状態です。
「鬼滅の刃」では、人間側の正義として「早期完了」の状態を保つことが目指されていると言うこともできるでしょう。
鬼=欲望は自我同一性達成に必要不可欠
さて、一方、鬼の方はどうでしょう。
小山さんは、鬼はなんらかの欲望を持っており、それが否定されるという構造があると言っていますね。
私は、5月の記事でもお話したように、「鬼滅の刃」の鬼は、ほとんどが「境界例的」な特徴とそれに関連した欲求や不安を持っていると考えています。
この「境界例的」な特徴は、乳幼児期に作られる認知様式から生じるものです。以下に5月の記事を引用しておきますが、ご存知の方は飛ばしてください。
星乃:そうなんです。まずこれを説明するためには、境界例の意識構造についてお話しないといけません。境界例は、フロイトの発達段階の口唇期と関係していると言われているんですよね。
まき:えっと、口唇期っていうのは?
星乃:口唇期は0歳から1歳半くらいの時期のことです。赤ちゃんは生まれたばかりのときはまだ世界やお母さんと一体化している感覚でいるのだけれど、だんだん世界が「自分と自分じゃないもの」に分かれていくのね。自分と言っても、身体を自分と思っているわけではなくて、快不快や身体の感覚の総体のようなぼやっとしたものです。そして、「自分じゃないもの」も、おもちゃやお母さんお父さんそのものとして分かっているわけではなく、なにか分からない自分以外のものという認識となっています。
まき:ふむふむ。
星乃:その頃の赤ちゃんは、お母さんのお乳を吸うことが快感につながるでしょ。なので、口唇期と言われているんだけど、この頃の根本的な欲求は、「自分以外のもの」を飲み込んで一体化することだと私は考えているんです。そして、そのとき逆に飲み込まれて「自分が消えてしまう恐怖」も生じてきます。
まき:まじですか…!まさに「飲むか飲まれるか」の勝負なわけですね…!
星乃:うん(笑)。その「消えてしまう恐怖」を大人になっても持ち越して、口唇期の世界観を通して世界を認識してしまうことから境界例の症状が生じると私は考えているの。で、その「消えてしまう恐怖」を打ち消すために、境界例の人は周囲の人達との深い絆を求めるんですよね。他人に愛され、認められ、必要とされることでこの世に繋ぎ止められると考えるんです。
◉「鬼滅の刃」大人気の本当の理由とは?新ジャンル「役に立つメンヘラ」説
なので、鬼側は、実は乳幼児期に作られた認知様式につながることができていると解釈することができます。これは、自我同一性を確立するためには不可欠な要素です。
ただ、そことつながっても、欲求や不安が大きくなりすぎてコントロール出来なくなると、こころの病気、つまりここでは「境界例」=「境界性人格障害」となってしまうんです。
そのこころの病気になるリスクを背負いつつも、親や家庭の影響から脱して自分の奥底にある欲求や不安と向き合い、いろいろな経験を通してそれをコントロール可能なものにしていくことが人間的成長となります。
「他者の時代」に即した「早期完了がカッコいい」というメッセージ
5月の記事の最後にも書きましたが、「鬼滅の刃」という作品を作者の吾峠呼世晴さんの心の世界と解釈した場合は、吾峠呼さんの中の境界例的な攻撃性や衝動性、つまり鬼の部分と人間的な理性の統合の物語、つまり人間的成長の物語と取ることもできます。
ただ、これを一般大衆が観た時には、どうしても受け取り方が変わってきてしまいます。
つまり、「欲望や欲求を抑圧して、社会的規範や親の価値観で生きるのがカッコいい」「児童期のままでいい」「自我の確立なんてしない方がいい」というメッセージになってしまう可能性があるんです。
5月の記事では、90年代は自分の感情や恋愛、自己主張、個性などを重要視する「自己の時代」、2000年代初頭以降は他者や社会、権威からどう見られるかが重視される「他者の時代」というお話をしましたが、「鬼滅の刃」の「欲望や欲求を抑圧して、社会的規範や親の価値観で生きるのがカッコいい」というメッセージは、まさに現在の「他者の時代」に即したものになっていると思うんですね。
自我同一性の達成は、親との関係や自分の奥底のネガティブな感情に向き合ったり、現実生活で自分の欲求をコントロールしたりと、かなりエネルギーを使うことですから、それをしなくていい、むしろ「早期完了がカッコいい!」となれば、やっぱり無意識に安心感を持つ人も多いのではないでしょうか。
また、子供に「鬼滅ファン」が多いのも、児童期の課題と重なっている部分があるからという面もあるかもしれません。
なので、小山さんは「鬼滅のヒットは女性がそのような男性像を求めているから」と言っていますが、それだけが理由とは私は思いません。
5月の記事でも「禰豆子はメンヘラの理想の治療過程」ということを書いているので、これは小山さんの意見と類似するものだと思いますが、やはり時代性とピッタリ合致したということが一番大きいのではないかと思っています。
「エヴァ」と「鬼滅」の作品自体の意味とメッセージ性の解離
また、5月の記事では、庵野監督の「エヴァンゲリオン」は「自己の時代の境界例的作品」、「鬼滅の刃」は「他者の時代の女性視点による境界例的作品」と書きました。
作品自体の内容も、「境界例的」「時代性」「性別」という点で比較が面白かったのですが、一般大衆の受け止め方という点でも、この2つの比較は面白いものがあります。また、5月の記事を引用しますね。
星乃:『エヴァ』の放映が始まったのが、1995年です。90年代前半まではまだ社会の中に「人間とはこうあるべき」「男性とはこうあるべき」という考え方が強い時代でしたが、このような善悪の基準で人間の心を上から縛るような心の機能をフロイトは超自我と呼びます。
まき:境界例的な人が一番キライなやつですね。常識とか社会、権威、現実、仕事の象徴でもあるんですよね。
星乃:そうですね、実際『エヴァ』では父ゲンドウが超自我となっていますが、シンジくんはゲンドウに反発します。シンジくんのキャラ自体がそれまでのアニメの男らしいキャラとは正反対の弱々しくてわがままで主体性もなくやる気もないというキャラでしたから、キャラ自体がもう超自我に反発しているんです。
『奥行きの子供たち』では、そういう超自我への反発というテーマが、超自我に飽き飽きしていた若者に「そのままでいいんだよ」というメッセージになったのではと書いたんですよね。
◉「鬼滅の刃」大人気の本当の理由とは?新ジャンル「役に立つメンヘラ」説
「エヴァ」は、超自我に飽き飽きしていた若者に「超自我の声なんて聞かなくていいんだよ」というメッセージとして受け取られたことがヒットにつながったのではないかと私は考えています。
庵野監督は「魂を削って描いている」と仰っているので、自分の内的な魂の葛藤や超自我との戦いを表現したのではないかと私は考えていますが、一般には、上記のように受け取られてしまったことが逆にヒットにつながったように思います。
同様に「鬼滅」も、作品自体は吾峠呼世晴さんの魂の癒やしの物語と取ることもできますが、一般には「早期完了がカッコいい」というメッセージとして受け取られたことでヒットしたと言えるのではないでしょうか。
実は鬼こそ救世主だった
ただ、心理学的にこの2つの作品のメッセージ性の対比を見ると、心配なことがあります。
「自己の時代の境界例的作品」である「エヴァ」は、親子関係の影響から脱した思春期における「境界例的な欲求」と超自我との戦いを描いたものでした。
ですから、まだ自我同一性達成ではないものの、乳幼児期に作られる認知様式から生じる欲求・不安とつながっていて、それを基盤に物語が進んでいきました。思春期における「欲求」を大事にするがための「超自我への反発」だったんです。「自己の時代」ですから、あくまで自己の欲求を大事にするんですね。
もし「鬼滅」に「エヴァ」の登場人物が出てきたら、みんな鬼なんじゃないかと思うくらい、「エヴァ」のキャラはみんな欲望に忠実な気がします。
それが、「他者の時代の境界例的作品」である「鬼滅」になると、乳幼児期に作られる認知様式から生じる「境界例的」欲求は「鬼」として疎んじられ、抑圧、否定されるものとして描かれます。そして、家庭での役割である「長男であること」「家族を守ること」がもっとも重要視され、それを実行するには「鬼=欲求」は倒されなければならない。
「鬼滅」では、思春期に行く手前で、思春期に移行するために必要不可欠な「欲求」を否定し、児童期のままでいることが推奨されるんです。「他者の時代」には「他者」=親・社会・権威に従順な子供でいることが大事になるんですね。
つまり、「エヴァ」はかろうじて思春期の課題だったのが、「鬼滅」では1つ段階がおちて「児童期に留まろう」がテーマになってしまっているのです。
心理学的な発達、人間的成長という観点から見ると、「鬼滅」では欲求=鬼を殺そうとする人間の方がむしろ鬼的な存在で、欲求とつながっている鬼の方が人間的だと言えるのではないか……なんて思ってしまいます。
今の社会的風潮ではどうしても「自分の欲求は悪」とされがちですが、実はこの欲求こそが自分の人生を幸せに生きるために必要なものなんです。
人間の心のシステムは楽な方に流されるものなので、時代に逆らって自分と向き合うのは難しいことかもしれません。
でも、本当は「鬼」こそが自分の「救世主」なんですよね。