こんにちは、元臨床心理士の春井星乃です。
現在は、心理学・精神分析・エニアグラムを通して性格構造を明らかにする「イデアサイコロジー」を提唱しています。
みなさん、『梨泰院(イテウォン)クラス』ってご存知ですか?
Netflixで配信中の韓国ドラマなんですが、原作は2017〜2018年まで連載された韓国のウェブ漫画で、ドラマは2020年1月から3月まで韓国で放送されていました。日本では、2020年3月から配信されています。
今年話題になった韓国ドラマといえば『愛の不時着』ですが、私はあまりハマらなかったんです。それで同じく話題になっていたこの『梨泰院クラス』にもしばらく食指が動きませんでした。
でも、YouTubeでオリラジの中田敦彦さんも激しくハマっているというのを聞いて見始めたところ、号泣。今年いちばんと言っていいくらいのお気に入りの作品になりました。
今回は、この『梨泰院クラス』を、社会学者宮台真司さんの「主意主義・主知主義」という概念を通して考察してみたいと思います。
*ネタバレがありますので、まだドラマを観てない方はぜひ観てからご覧ください。
『梨泰院クラス』のあらすじ
「まだ観てないけど考察から読んでみたい」という方のために、あらすじからお話しておきますね。
高校3年生のパク・セロイは、国内最大の外食チェーン「長家(チャンガ)」に勤める父親の転勤で転校するが、同じクラスに長家の会長(チャン・デヒ)の息子チャン・グンウォンがいた。転校初日にグンウォンが同級生をいじめている現場を目撃したため、いじめを止めるように言うがグンウォンはいじめを続ける。それを見たセロイはグンウォンを殴ってしまう。
そこで、セロイの父親、グンウォンの父親(チャン・デヒ会長)が呼び出され、会長はセロイに「土下座して謝れば退学しなくてもいい」と言うが、セロイは「自分は悪いことはしていない」と土下座を断固拒否する。父親もそれを誇りに思うと言い、セロイは退学、父親は会社を退社することになった。
その後、父親は昔からの夢だった居酒屋をオープンしセロイも手伝うが、生活が順調に進むと思っていた矢先、グンウォンの運転する車に父親がひかれ、亡くなってしまう。会長は息子の事故を隠蔽するが、セロイは真実を知り、グンウォンを殴り倒す。そこで警察が来て、殺人未遂で懲役3年の罪となってしまう。
中卒で天涯孤独、前科者となってしまったセロイは、それでも強い信念を抱きつつ困難に耐え「長家を超える国内最大の外食企業を作る」という野望を実現するために仲間とともに奮闘する……というお話です。
主知主義と主意主義
『梨泰院クラス』を観ながら、このドラマは「主知主義と主意主義を巧妙に対比させながら、最後には主意主義が成功と幸せを得る」というストーリーだと感じました。
「主知主義と主意主義ってなに?」という方も多いですよね。
主知主義とは、簡単に言うと、理性や知性を重視する立場、主意主義とは理性や知性よりも意志の働きを重視する立場ということになるのですが、このブログでも引用させていただいている社会学者の宮台真司さんによると、
◉主知主義:エジプト的
人間が理不尽や不条理な目にあうのは、神のご期待に添えずに神の怒りを買ったからだとする思考。たとえば、生贄を少なくしたり、戒律を破ったからなど。
◉主意主義:ギリシャ的
人間の理不尽や不条理を神の意志だとするのは依存的な行為であり、人間側の気休めにすぎない。それは神を操縦しようとするエゴ的な行為だとする思考。神の考えに依存せず、ひたすら意志によって邁進することこそ英雄的と考える。
これは宗教的な言い回しになっていますが、現代風にいえば、主知主義とは、利益、損得、法律などを重視して合理的に考えること、主意主義とは、そのような利益や損得、法律などよりも自分の信念や直感、やりたいことなどを重視して考えることとなるのではないかと思います。
つまり、主意主義とは、もしそれが実際には損になったり負ける可能性が高いとしても「それがどうした!」と言って、信念ややりたいことを追求するということですね。
『梨泰院クラス』は、まさにこの主知主義と主意主義の人間の攻防戦が幾重にも重なって描かれていて、実に見事な構成になっているんです。
その最も核となる対立軸は、長家の会長チャン・デヒと主人公パク・セロイですが、その他にも、息子同士の対立であるチャン・グンウォンとパク・セロイ、セロイを挟んだ恋愛模様を繰り広げるオ・スアとチョ・イソ、そしてチョ・イソを挟んだチャン・グンスとパク・セロイという3つの対立軸があります。
これらがすべて主知主義と主意主義の対立になっているところが本当によくできているんですよね。
では、この4つの対立軸を1つずつ見ていきましょう。
チャン・デヒ会長とパク・セロイ「利益か信念か」
このドラマの主軸となっているのは、なんといっても長家の会長チャン・デヒと主人公パク・セロイの関係です。もちろん、会長は主知主義、パク・セロイは主意主義を体現する人物と言えます。
この会長は、幼い頃両親を亡くし、長男として弟妹の面倒を見ていたんですが、貧しさで満足に食べせさせてやれず弟妹も亡くしてしまうんです。そして、それをきっかけに、美味しいものを食べさせてやりたかったという思いから小さな居酒屋をオープンし、それを国内最大手の外食チェーンにまで拡大させた大成功者です。
会長も最初は純粋な妹弟を思う気持ちから始まっていたのですが、店の規模が拡大するにつれて、利益第一の主知主義になっていくんですね。
会長の座右の銘は「弱肉強食」で、セロイに対して「信念や気合というのは弱者の強がりに過ぎない。ただの意地だ。なぜなら利益にならないから」と言うんですが、これはまさに主知主義の言葉です。
会社の利益のためなら事故も隠蔽し、ありとあらゆる権謀術数を使って敵を倒し、息子でさえも切り捨てるというのが、会長の生き方です。
それに対して、セロイの座右の銘は「信念と気合」。正しいこと、人のためになること、仲間を大切にすること、そして長家を超えるという目的を実現することは、誰が何を言おうとたとえ損をしたとしても貫き通します。
まさに、「それがどうした!」の主意主義なんです。会長の主知主義に屈服せず主意主義を貫いたことからセロイの人生は怒涛の展開になっていくわけですが、それでも主意主義を貫き通すというセロイのキャラがこのドラマの一番の魅力だと言えると思います。
セロイの髪型はスポーツ刈りのようないがぐり頭で、お世辞にもおしゃれとは言えないのですが、その周囲の目を一切気にしないという姿勢をよく表していて、キャラ設定がよくできているなと思ったんですね。日本でも、この髪型が話題になっていて憧れる男性もいるらしいです。
この会長の主知主義とセロイの主意主義の攻防戦は、なんども負けそうになりながらも最後はセロイが勝利します。セロイは困難に耐え努力を積み重ね、信念を貫くことで、そこに仲間が集まり信頼を得て、最後は愛も成功も勝ち取り、公私共に幸せになります。
それに対して、会長は利益を追求することにより、部下や息子との信頼関係も次第に壊れていき、最後には会社もセロイに買収され、病気に侵され1人寂しく人生を終わることになります。
つまり、『梨泰院クラス』は明確に「主意主義推し」のドラマになっています。
チャン・グンウォンとパク・セロイ「早期完了か自我同一性達成か」
さて、これだけなら今までの復讐モノの作品によくあるパターンだと思われるかもしれませんが、面白いのはここからです。
2つ目の対立軸は、会長の息子チャン・グンウォンとセロイの関係です。もちろん、グンウォンが主知主義、セロイが主意主義なのですが、この2人はお互いに父親を尊敬する息子という共通点があります。
この大きな存在感のある父親との関係で、この2人の生き方を分けたものは何なのかと考えたときに思いつくのが、このブログでいつもお話している自我同一性地位です。
ご存知の方には繰り返しになってしまいますが、自我同一性について簡単に説明しておきますね。
心理学には、「自我同一性(アイデンティティ)」という概念があります。「自我同一性」とは、これまでもこれからもこの自分であるという「一貫した自分」や「これこそが自分自身だ」という感覚のことを指します。
人間は13〜14歳前後から自我同一性確立への課題に向き合うことになるとされていて、心理学者マーシャは、この自我同一性を確立するためには、「危機」と「傾倒」という2つの条件が必要だと考えました。
「危機」とは、それまで当たり前だと感じて取り入れていた価値観に対して迷いを感じ、自分はこれでいいのかと考え始めること、「傾倒」とは、自分で選択したある特定の事柄に対し、興味関心を持ち、積極的に関わることです。
そして、マーシャはこの「危機」と「傾倒」の組み合わせで、自我同一性を確立するまでには4つの段階があるとしました。「自我同一性達成」「モラトリアム」「早期完了」「自我同一性拡散」です。
この自我同一性地位に当てはめて考えると、グンウォンは早期完了、セロイは自我同一性達成になります。この2人の違いは「危機」の経験の有無です。
グンウォンと会長のシーンで私が最も興味深かったのは、グンウォンがセロイの父親を事故で死なせてしまい、罪悪感に苛まれていたときのものです。
グンウォンが落ち込んでいると、会長が「ちょっと来い」と言ってグンウォンを鶏小屋に連れていく。
そこで、会長は1匹の鶏を捕まえて、「セロイや従業員は家畜で、我々は人間だ。人間は鶏を食べるのになんの罪悪感も持たない。この鶏の首を折って殺せ」と言う。
グンウォンは悲壮な表情で「俺にはできない」と訴えるが、会長は「息子は他にもいる。跡取りはお前じゃなくてもいいんだぞ」とさらに畳み掛ける。グンウォンはそこで恐怖と罪悪感を押し殺して、叫びながら鶏を殺す。
というシーンです。
1人の同級生を2年以上もいじめていたグンウォンですが、故意ではないにしろ、セロイの父親を死なせてしまったことはさすがにショックで罪悪感に苛まれていました。これはグンウォンにとってはそれまでの価値観を疑う「危機」のきっかけになるはずの出来事でした。
でも、会長にこのように言われ社会的な地位や父親の承認を選び、自分の罪悪感や恐怖を押し殺したことで、「危機」を経験する機会を逃してしまったんですね。
結局グンウォンは、そこで自分の奥深いところから湧いてくる感情、自分の本質とつながる回路を絶ち、父親の価値観=主知主義を自分の生き方としてしまいました。これが早期完了の生き方です。
それに対してセロイは同様に父親の「信念を大事にする」という教えを取り込んで生きてきましたが、グンウォンを殴り会長に土下座をしなかったことで、父親を退社に追い込んでしまいました。
また、グンウォンが父親の事故の犯人だと知り、殴り倒したときも、その後自分は刑務所に入ることになります。
つまり、たとえ父親を退社に追い込み、自分が前科者になったとしても、自分の信念を優先しているんです。それまでは「父親の教えだから」という要素も大きかったかもしれませんが、この土下座拒否や父親の死という「危機」で、「信念と気合」はセロイ自身の生き方になったのではないかと思います。
「父親の教えだから」「人間の責任・義務だから」と頭で考えてそのまま実行するのではなく、自分の奥深くから湧いてくる感情と常につながって、それをもとに行動を選択しているんですね。
グンウォンは自分の感情を押し殺して父親の生き方をそのまま取り入れましたが、セロイは自分の感情や欲求・不安とつながり、自分の生き方を確立したんですね。この感情・欲求・不安から「傾倒」が生まれ、主意主義が生まれます。
なので、早期完了の意識状態の人は主知主義的に生き、自我同一性達成の意識状態の人は主意主義的に生きる傾向があると言えるでしょう。
こう考えると、グンウォンが主知主義、セロイが主意主義になった理由がよくわかります。
オ・スアとチョ・イソ「自分を守るか相手に人生を賭けるか」
さて、3つ目の対立軸は、セロイの初恋の人オ・スアとセロイに恋してセロイの店のスタッフになるチョ・イソです。私は個人的にはこの2人の対比がとても興味深かったです。
まず、スアですが、スアは幼い頃母親に捨てられ高校まで養護施設で暮らしていましたが、周囲に養護施設にいることを憐れまれることを嫌い、誰にも頼らず自立して生きると心に決めていました。
自分は誰にも愛されない、大切にされないから、せめて自分だけは自分を愛さなければというのが、スアの人生の指針だったんですね。
スアのいる養護施設に長家の慈善事業の担当者として入っていたのがセロイの父親で、高校時代にセロイがその手伝いをしたときに同じく高校生のスアと出会い、そこからセロイの初恋が始まります。
スアもセロイに好感を持ってはいるんですが、「私は金持ちが好き」「私を好きにならないで」といって、友だち以上恋人未満のような状態が続きます。
その後、セロイの父親の事故の真相を知ったのがスアだったため、長家の会長が口封じの目的もありスアに奨学金を出し、大学卒業後もスアは長家に入社することになります。
この流れを見ると、スアは早期完了で主知主義のキャラとなっています。
スアは両親はいませんが、児童期の家庭環境から作られた自分イメージ、つまり「捨てられた自分」「愛されない自分」というイメージが強固にあるため、「自分が自分を大切にしなければ悲惨な人生になる」という呪縛から逃れることができません。「危機」を経験せず、その価値観で思春期以降も生きてしまうんですね。
すると、利益優先の主知主義となります。実際、スアは、セロイと会長の関係をしりつつ会長の奨学金を受け取り、社会的な地位が約束されている長家で働くことを選択します。
その矛盾や自分の利己主義を感じて自分を責めたり自暴自棄になったりはするんですが、結局最後まで主知主義を捨てません。
それに対して、チョ・イソは自我同一性達成で主意主義のキャラです。
イソはセロイより10歳年下の、IQ162でスポーツ万能、多芸多才、できないことが何もないという天才少女です。SNSで70万フォロワーを持つインフルエンサーという一面もあります。
セロイと出会う前、イソは高校生ですが「このまま生きていても、ただ退屈な努力をして成功していくのは分かりきっている」と感じ、「地球が爆発してしまえばいい」「生まれてこなければよかった」と人生に飽き飽きしているんですね。
つまり、主知主義で生きて成功していくことが分かりきっていて人生になんの意味も感じられないという状態だったんです。
そんな毎日を送っていたときにセロイと出会い、セロイの周囲をものともしない信念の強さ、実直さ、誠実さにはじめて心が動かされます。すべてが分かりすぎていて主知主義で生きていたイソがはじめて自分の奥深い感情に触れたんです。はじめて、人生をかけられる価値を見つけたんですね。
そこで、最高の大学に入学が決まっているにも関わらず、それを蹴って、セロイの店で働くことを決めます。
イソの母親は自分が離婚しているため、娘にはいい大学に入っていい会社に入ることが最善の人生と言い、「私を裏切らないよね」といつもイソに言い聞かせていました。
なので、さすがに大学を蹴ってセロイの店に行く前、イソは橋の上でコインを振ります。母親のいう人生を選ぶのか、セロイに人生を賭けるのか。結局、コインは川に落ちてしまったのですが、「私はどちらになってほしかったのかな」と言いながら、セロイの店に向かうんです。
あとで母親に大学に行っていないことがバレた時も「私はいい大学、いい会社に入るのは無理」「自分主体の人生を生きるわ」と言って家を出ます。
ここには明確に、「危機」(母親の価値観と自分の感情、直感どちらを選ぶか)と「傾倒」(セロイに人生を賭ける)が描かれています。
ただイソもすぐに主意主義100%になったわけではなく、店の経営ではどうしても主知主義の利益優先の思考が出て、セロイの主意主義とぶつかります。何度もぶつかりながら、徐々にイソは主知主義を捨て、セロイの主意主義にすべてを賭けようと決心するようになるんですね。
その間も、実はセロイの気持ちはスアにあります。スアに「俺が長家から救い出すから」「俺が長家をつぶす」と人生を賭けた告白までします。イソはセロイにはっきりと振られた後もあきらめず、セロイのために仕事をがんばり、セロイを支え続けます。
イソには「必ずセロイは最後は私に振り向く」という直感があるんですよね。こういう自分の奥底から湧き出てくる信念や直感というものは、自我同一性を確立して感情とつながり、自分と他人を正しく認識し、適切な状況判断をしていくうちに、自然と生まれてくるものです。
こういう信念や直感が生まれてくると、人間ってほんとうに強くなれるんですよね。たとえ損しても負ける可能性が高くても、自分を信じることができるようになっていきます。そして、そのために他のすべてを捨てられるという強さが生まれます。
イソが自分を捨ててセロイの信念に全力で寄り添い支えていたのに比べ、スアはどうしても自分を捨てられません。セロイが自分に合わせて変わることを待つことしかできないんですね。セロイの人生を賭けた告白後もスアは自分を捨てられず、意を決してセロイに伝えた言葉も「もう長家への復讐はあきらめて、私と一緒にいよう」でした。
そこから、スアしか見えないという状態だったセロイも、イソが過労で倒れたことをきっかけに実は自分はイソを愛しているということに気づきます。
つまり、感情とつながり、自分を捨てられる強さを持つ自我同一性達成の主意主義の人同士に、ほんとうの共感や信頼関係、愛が生まれるということを、『梨泰院クラス』では表現しているのではないかと思います。
オリラジの中田さんも、チョ・イソにハマって恋してると言ってました(笑)。
チャン・グンスとパク・セロイ「社会的地位か生き様か」
最後は、イソの友人でグンウォンの腹違いの弟であるチャン・グンスとセロイの関係です。
グンスはイソと高校の同級生で、そのころからイソを好きでした。イソとともにセロイの店で働いていましたが、イソがセロイを好きなのを知っても、イソに積極的にアピールすることはありませんでした。
徐々に、会長と兄とセロイの関係がこじれてグンスが店に居づらくなり、イソに冗談で「あんたは欲がなさすぎる。私に欲が出たなら、長家を継いで」と言われていたのを思い出し、イソを振り向かせるため、兄に代わり長家の跡取りとして働きはじめます。
グンスも、自分がほんとうに何がやりたいのかということを考えず、イソの言葉を鵜呑みにして、社会的地位を求める主知主義に走ってしまいました。
でも、当然主意主義のイソは、そんな主知主義のグンスに魅力を感じるわけがなく、結局主意主義のセロイを選びました。社会的地位ではなく、生き様を見て選択しているんですね。イソを挟んだこの関係でも、主知主義と主意主義の対立が描かれています。
『梨泰院クラス』は主意主義の時代の兆しなのか
このように『梨泰院クラス』は、主知主義と主意主義の対比が巧妙になされ、最後には主意主義の人が成功と幸せを掴むというストーリーになっています。
「社会学者宮台真司さんのお話を心理学的に考察してみた。」の記事で、
「これからの時代は、右翼か左翼か、資本主義か共産主義か、支配者層か被支配者層かという対立構造ではなく、「自我同一性達成か早期完了か」、宮台さんの言葉でいえば「マトモかクズか」ということが更に浮き彫りになっていくのではないでしょうか。」
と書きましたが、『梨泰院クラス』はまさにこの対立が明確に描かれています。
つまり、
主知主義=早期完了=クズ
主意主義=自我同一性達成=マトモ
ということになります。
主知主義=早期完了=クズの文化が大勢のいまの日本ですが、主意主義バンザイの『梨泰院クラス』のような作品が話題になったということは、徐々にそこに風穴が空き始めているのかもしれないと感じました。
2020年は新型コロナウイルスの影響で、さまざまな社会のシステムや慣習、生活様式などが変化を余儀なくされました。
2021年は主意主義が徐々に芽吹いていく年になればいいなと思っています。