辺境ライター&編集の「まきしむ」です。
いまコロナウイルス禍によって、経済やら政治やら、あらゆるものが古い体制から切り離されようとしている。ここ日本も例外ではない。
といっても海外に比べればその歩みは遅く、未だ多くの人がハンコを押すためだけに感染リスクを背負って出勤している。誰もがこの状況はおかしいと感じつつも得体のしれないシガラミに囚われ、日常を無理やり送らされているのだ。
しかし私はこのような混乱を経験したのは初めてではないと感じている。
2011年3月11日、東日本大震災だ。当時のテレビでは、ある専門家が「原発の格納容器は堅牢なのでメルトダウンしない」と発言していた。私はこれに少なからず安心感を得ていた。しかしその直後、メルトダウンが報じられたのは皆さんご存知の通りだ。
それまでの私は青臭いことに、「政府が国民を殺すようなことはするはずがない」とどこかで信じていた。だから政治にも無関心でいられた。だが、そうではないことが思い知らされたのだ。
命の危険を感じた私は、「ただちに影響はない」という政府や社会の雰囲気に逆らい、東京から九州に「逃げた」。
すると、ふだんから社会の暗黙の了解に従って生きていた私に、途轍もない孤独感が襲った。これなら逃げずに皆と同じように「日常」を送っていたほうがマシだとさえ感じた。
しかしここで無理やり獲得した「変化への適応力」は、今私に幾ばくかの勇気を与えている。変化とは、孤独に抗う力でもある…というのは、孤独を最も嫌うエニアグラムタイプ7-8である私の持論である。
何かを変えるには、それまでの自分や社会の常識を否定しなくてはならない。安寧の地に留まることは許されない。「物理的に一人」になることによる孤独でなく、精神的な孤独を嫌う私にとって、それらは「孤独」に他ならなかった。
本当なら変わらぬ日常を送りたい。「みんな」と同じことをしていたい。しかしそれでは、いよいよ生き残れない時代に突入したのである。
ただし私にとって3.11は、「精神の分化」であった。「原発離婚」や「安全厨」「危険厨」などの思想の分かれ道はあったものの、実際に被災した人や避難せざるを得なかった人を除けば、正直ほとんどの人の「行動」は日常と変わりなかったように思う。
しかし今回は違う。
一人ひとりの行動や社会のあり方そのものが今、大きな分かれ道を迎えているのだ。
それは「政治2.0」であり、「経済2.0」であり、「教育2.o」であり、「人間関係2.0」でもある。今こそ「孤独と向き合う勇気」「変化する勇気」が必要なのだ。
では具体的にはどうすればいいのか?
それはイデアサイコロジーが指し示すように、「自分と真摯に向き合うこと」に他ならない。原発だろうがコロナだろうが、結局人間は、常に自分の感情と向き合う勇気を問われているのだ。
…しかしこんな偉そうなことを言っている私も、「あ、別に『変わる勇気は孤独になる勇気』ってのは世界の真理とかじゃなくて7-8だからこう考えるんであって、7-8なりの真理なんすわ」と思えるのはエニアグラムのお陰なので、結局何が言いたいかというと、これからの時代にメタ思考は必須で、自分なりの真実を獲得することも必須で、そこにイデアサイコロジーとエニアグラムは欠かせないんだよってことを声を大にして言いたい。いやほんとに。