こんにちは、末富晶です。
イデアサイコロジーのブログで書かせていただく2つ目の記事になります。お読みいただき、ありがとうございます。
「チームイデサでブログ記事を書くことになりました!」の記事の自己紹介でも書かせていただいたのですが、私は小学校3年生から学校に行かなくなるいう少数派の経験を経て大人になっています。
だからそうなる傾向が強かったのかもしれませんが、自分の心と向き合うことには昔から興味があり、十代の頃から漠然と「心ってなんだろう」、ひいては、その心を持っているとされる「私ってなんだろう」という問いをゆらゆらと揺らしながら日常生活をおくっていました。
まわりの大人の中には私が興味を持っていることに同じように興味を持っている人は少ないように思え、話ができそうな人を見つけたと思っても、そんな人でさえより多くの関心は常に彼らの言う「現実」に向けられていると感じていました。
そうは言っても「現実」はね。とか、
そんなことばかり気にしていては「現実」を生きられない。という言葉を聞くたび、
だけどその現実にいつでも、もうこれ以上ないくらい関わっている自分の「心」に関心を向けずに、どうやって日々現れてくる目の前の問題を解決していけばいいのだろう。
ずっと、そんな風な疑問を持っていたように思います。
例えば道路で車を運転するときはあんなに慎重に、右も左もよく見て、注意深く進むのに。
心についてはアクセルもブレーキも知らないまま出かけていって、何かが急に飛び出してきたと言ってはその度ハンドルを大きく切って対処しようとしているとしたら。
たとえ運よく飛び出してきたものに当たらずとも、ハンドルを切った先の電柱に衝突するかもしれず、そのやり方で事故を起こさないでいられたとすればもうその方が不思議なくらいです。
何かが飛び出してきたその時、それまで心になんの関心もはらってこなかったなら、できることはこれまで通りの「とにかくハンドルを大きく切る」という反応のみとなるでしょう。
でももしそれまでに自分の心を注意深く見ることができていれば、もう「ブレーキ」の場所も使い方も把握しているので、慌てず一度そこで「止まる」という選択もできるようになるはずで。
それは「現実」を生きる上で馬鹿にできない、いえそれどころか本当は、いの一番に考えなければいけないことなのではないか。
私たちは最初に覚えた無条件で起こる反応を自分の心と信じているけど、本当の心はむしろ、それをコントロールするもののことを指すのではないか、と感じていたのです。
もちろん車やブレーキは比喩にすぎないし、理想的には、と前置きを付けなければいけない話かもしれないけれど。
その時々の場面で必ず、心がその人の現実に無視できない影響を与えていることには、きっと多くの人が同意してくださるかと思います。
でもそこから先は、
「私たちは果たして、自分の心をコントロールすることができる存在なのか」
という問いにどうこたえるかによって、道が分かれていくことになります。
「私たちは自分の心をコントロールするすべを見つけていくことができるし、今と同じ状態にとどまらず、多くのことをよりよい方向へ変化させていくことができる」と感じるか。
「私たちはしょせん心に振り回される存在で、それに抗うことなど不可能。大きな恐れや不安に乱されない状態などありえないし、そうなりたいとも思わない」と感じるか。
イデアサイコロジーの扉は言うまでもなく、前者のような思いを持つ方に向けて開かれています。
そしてもちろん、私もその同じ思いを感じている一人です。
私たちは、自らそうしようと努めるかぎり、必ず自分自身をよりよい方向へ導いていくことができる。
そう感じる人がたくさんいる世界は、きっとその未来にこれまでにない明るさを含んでいることでしょう。
どんな人生を歩んでいくかは、もちろんその人の自由だけれど。
願わくば、心の在りかを見つけるその旅の途中で、多くの志ある仲間と出会えますように。