▲Amazon『イエスタデイ』(字幕版)DVD
こんにちは、元臨床心理士の春井星乃です。
現在は、心理学・精神分析・エニアグラムを通して性格構造を明らかにする「イデアサイコロジー」を提唱しています。
先週、Netflixで『イエスタデイ』という映画を観ました。
この作品は2019年公開の、ビートルズをテーマにしたファンタジーコメディ映画で、今年4月22日からレンタル開始になったんです。
私は、ビートルズというと中学の音楽の授業で知った世代なのですが、うちの旦那様がビートルズの大大大ファンなので私もいつのまにか教育され(笑)、2人でずっと楽しみにしていた作品でした。
売れないミュージシャンの主人公ジャックが交通事故にあった後、何気なく友人たちの前で「イエスタデイ」を弾き語りすると、彼らは「そんな歌いつ作ったの?」と驚き感動する。いつの間にかジャック以外がビートルズを知らない世界になっていた……
という出だしで始まる、誰もがどこかで見たことのあるような、ビートルズファンなら誰もが一度は妄想してしまうありがちなストーリー展開なのですが、飽きさせず引き込まれる作品となっていました。
主人公のジャック役のヒメーシュ・パテルの純粋さとその人柄から生み出される透明感のある声、歌のうまさがビートルズの素晴らしい曲を引き立てるんですよね。
そして、この作品で最も私が感じたことは、やはりジョン・レノンとポール・マッカートニーというのは稀代の天才なんだなということと、さらにこの2人を生み出した時代性というものが大きな力を持っているということでした。
とにかく、ビートルズの素晴らしさを再確認し、ビートルズの曲をまた聞きたくなる作品でした。
この記事では、この作品に本人役で登場したイギリスのシンガーソングライターのエド・シーランとビートルズの曲の比較をしつつ、ビートルズが活躍した60~70年代と現在の時代性について考えてみたいと思います。
個体意識と歴史意識の発達は同じ構造を持っている
個人と歴史の意識発達のイデア
「スキゾ・パラノ」と「自己と他者」
ビートルズとエド・シーランの曲と時代性
デジタル資本主義時代の若者はスキゾ資本主義をどう捉えるか
ビートルズとエド・シーランの曲の違いとは?
ストーリーの中盤で、エド・シーランに「即興の曲作り対決をしよう」とスタッフたちの前で提案され、仕方なく対決をすることになるというシーンがあります。
そして、エド・シーランがギターで自作曲を披露した後、ジャックがポール・マッカートニーの『ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード』をピアノで弾き語りするんですね。
エド・シーランはよくこんな役を引き受けたなと思ってしまうほど、そこで2つの曲の間の心に働きかける深みの違いが明らかになるわけです。
私は今までエド・シーランは名前しか知らなくて、この映画ではじめてご本人を見たというレベルだったので、ちょっと調べてみました。
エド・シーラン(エドワード・クリストファー・シーラン)は1991年生まれで2011年にCDデビューしています。
イギリス・アメリカともに初登場1位を獲得したり、シングル、デジタルシングルセールス、ストリーミング数など、合計3つのギネス世界記録を獲得したりしている世界的ミュージシャンです。
そこで、何曲か彼の曲を聞いてみました。めちゃめちゃオシャレで、ソウルやR&B、フォークやラップなど様々な要素を盛り込み、技巧に優れていて飽きさせない。そんな印象を持ちました。
このエド・シーランの曲とビートルズの曲の違いは、何なのか。
私は、外側(他者からの視線)に軸を置いているか、内側(自己の感情)に軸を置いているかということが最も大きな違いなのではと感じました。
これは、個人の才能の違いももちろんありますが、それ以上に時代性の違いから来るものが大きいと私は思っています。
個体意識と歴史意識の発達は同じ構造を持っている
ナゾロジーのコロナ記事や「日本人のあるべき本当の姿とは」の記事で、90年代までは「自己の時代」、2000年代初頭以降が「他者の時代」だというお話をしてきました。
そして、その時代に大衆から絶大な人気を得たミュージシャンというのは、時代から大きな影響を受けていると私は考えています。
つまり、ビートルズを含め90年代までに活躍していたミュージシャンは自分軸に重心を置く傾向があり、エド・シーランを含めた2000年代初頭以降に活躍しているミュージシャンは他者軸に重心を置く傾向があると私は考えているんですね。
実は、この「自己の時代」「他者の時代」という考え方の奥には、イデアサイコロジー独自の歴史の捉え方があります。
去年出版した『奥行きの子供たち』に書いたもので、まだこのサイトでは触れていないのでちょっとここで簡単に説明してみますね。
みなさんは、ドイツの生物学者ヘッケルの「個体発生は系統発生を反復する」という考え方はご存知でしょうか。
受精卵から赤ちゃんの身体が出来上がるまでと、動物の進化のプロセスが相似形の関係にあるとする考え方です。
そして、同じような考え方を精神分析の創始者フロイトもしていました。
はじめは精神分析を歴史に適用することを禁止していたのですが、途中から、個体の意識発達を人間の歴史的意識の発達のメカニズムとパラレルなものと見なすようになっていったんです。
イデアサイコロジーでも同様の考え方をしています。つまり、個人の意識発達と集団としての歴史の流れが相似形となっているとする考え方です。
個人と歴史の意識発達のイデア
では、ここで『奥行きの子供たち』第3章「ロード・オブ・ザ・リング」に載せた図を転載してみますね。
もう少し分かりやすくするため、順番に説明すると次のようになります。
個人の意識発達 | 人類の歴史的意識発達 |
乳幼児期:口唇期・肛門期(0〜3歳:イメージの世界) | 多神教的文明(縄文時代等) |
児童期:男根期・潜在期(4〜12歳:言語の世界) | 一神教的文明(キリスト教の支配・専制君主制・法の登場) |
思春期:性器期(13〜20代前半:個的意識の目覚め) | ルネッサンス期(14〜16世紀:芸術・文化の隆盛) |
青年期(20代前半〜30代半ば:社会的個・社会的承認欲求) | 市民社会の登場(16世紀〜:プロテスタントの登場・市民革命) |
壮年期(30代半ば〜60代半ば:超自我との同一化) | パラノ資本主義(18〜19世紀:産業革命・利便性) |
老年期(60代半ば以降:自我の統合) | スキゾ資本主義(第2次世界大戦後:消費社会・ファンタズム・量子力学) |
肉体の死 | デジタル資本主義(2000年代初頭以降:コンピューター・AI) |
? | 新しい社会形態 |
イデアサイコロジーでは、以上のように個人の意識発達と歴史の流れが呼応していると考え、この構造を「イデア」と呼んでいます。
「スキゾ・パラノ」と「自己と他者」
さて、図を見て「スキゾ・パラノってなに?」と思われた方もいらっしゃいますよね。これが実は「自己の時代」「他者の時代」と関係してきます。
ちょっと説明が続いてしまいますが、次にこの「スキゾ」と「パラノ」について簡単に説明したいと思います。
まず、「スキゾ」という言葉は、統合失調症を表す「スキゾフレニア」から来ています。そして、「パラノ」という言葉は、偏執病・妄想性パーソナリティ障害を表す「パラノイア」から来ています。
ただ、この「スキゾ・パラノ」は病気の名前そのものを表すのではなく、哲学者ドゥルーズと精神科医のガタリが著書で使用するために作った概念なんです。
「スキゾ」は主観的意識や感情・欲求の開放の方向性、「パラノ」は客観的意識や言語・概念を重要視する方向性というような意味で使用されています。
そう考えるならば、当然、主観的意識や感情・欲求を重要視するのは「自己」の価値を重要視することとなり、客観的意識や言葉・概念を重要視することとは「他者」を重要視することになります。客観や言語というのは、他者との共通認識がなくては成り立たないものですから。
そして、イデアサイコロジーでは、
スキゾの時代
(1)乳幼児期=多神教的文明
(3)思春期=ルネッサンス期
(6)老年期=スキゾ資本主義
パラノの時代
(2)児童期=一神教的文明
(4)青年期=市民社会
(5)壮年期=パラノ資本主義
(7)肉体の死=デジタル資本主義
となっていると考えています。
ビートルズとエド・シーランの曲と時代性
簡単にですが、個人の意識発達と歴史の流れの説明が終わりました。さらに詳しく知りたい方は、ぜひ『奥行きの子供たち』を読んでみてくださいね。
では、最初のビートルズとエド・シーラン、つまり60〜70年代と現在の比較を始めましょう。
まず、ビートルズの活躍した60〜70年代は上の図で言うと、「スキゾ資本主義の時代」=「スキゾの時代」「自己の時代」となります。
60年代から70年代というのは、フランスでは5月革命、アメリカではベトナム戦争で反戦運動が巻き起こったり、物質文明を嫌ってヒッピーカルチャーに走る若者が増加した時代でした。
若者たちの間では反権力が主流で、哲学書を読むことや精神世界を探求することがファッションだったんですよね。現に、ビートルズもインドのマハリシに会いに行ったりして、世界中でスピリチュアルブームが起こっていました。
つまり、自分の内面を深く探求することがカッコいい時代だったんです。
ビートルズの曲を聞くと、自己肯定感と希望にあふれ、自由を追求する個人という雰囲気をとても感じます。
「個人>他者・権威・社会」という構図がなりたっていたように思うんですよね。
それに対して、2000年代初頭以降、特に2010年代以降は、「デジタル資本主義の時代」=「パラノの時代」「他者の時代」となります。
ナゾロジーの記事や「日本人のあるべき本当の姿とは」の記事にも書きましたが、自己の価値が下がり、若者の自己肯定感も低下しています。
そして、他者の顔色を伺いつつ生きるのがよしとされ、感情や自分の考えを主張することがカッコ悪いこととなっています。権威主義の人も増えていますしね。
つまり、「個人<他者・権威・社会」という構図があるように思います。
こんなに成功して世界で活躍しているエド・シーランの曲を聞いても、やはり、ビートルズの曲にあるような自己肯定感や希望や自由の感覚は感じませんし、心に深く訴えかけるようなメロディーラインはないですよね。サラッとおしゃれにさり気なく自分を表現するという印象を持ちます。
デジタル資本主義時代の若者はスキゾ資本主義の曲をどう捉えるか
ただひとつ、私はちょっと疑問があります。
もし、映画『イエスタデイ』のように、今、誰もビートルズの曲を知らない世界になったとして、誰かがビートルズの曲を引っさげてデビューしたとしたら……
果たして60〜70年代のように売れるでしょうか。
40代以降のスキゾ資本主義の影響が強い人たちには売れるかもしれませんが、今の10代20代にはあんまり響かない可能性もあるんじゃないかなと思っていたんです。
そうしたら、すごい偶然ですが、ツイッターで「80〜90年代の曲は明るすぎて受け付けない」という書き込みを見かけました。
その一方で、昨日の夜、これも偶然なんですがTBS「マツコの知らない世界」で、昭和歌謡マニアの平成生まれの20代の若者が出演し、昭和の名曲について語っていました。
スキゾ資本主義の雰囲気を嫌がる若者もいる一方で、自己の内側から生じる、感情を揺さぶるようなメロディーラインに惹かれる若者もいるんですね。
今はまだ、「デジタル資本主義」=「他者の時代」の影響が強そうですが、ナゾロジーの記事や「日本人のあるべき本当の姿とは」の記事でも書きましたように、このコロナウイルスの出現を機に心の内面を重視するような若者が増え、人類は新しい段階に進むのではないかと思っています。