こんにちは、末富晶です。
今回はこのブログの別記事、まきしむさんが星乃さんにインタビューされた「『鬼滅の刃』大ヒットの本当の理由とは?新ジャンル「役に立つメンヘラ」説」を読んで感じたことを書かせていただこうと思います。
まず最初にお伝えしておかなくてはと思うのですが、私は鬼滅の刃という作品が大きな話題になっていることは前々から知ってはいたのですが、原作にもアニメにもなかなか手が出せずにいて、現時点で漫画のごく最初の方だけをチラ読みしたのみ…という、物語に関してはあらすじ程度にしか知らないままこの文章を書いています。
私はエニアグラムではタイプ9−1なのですが、タイプ9ということもあり、漫画や映画などを見る時に刺激の強そうなものはどうしても苦手で避けてしまう傾向にあります。
鬼滅の刃についてはまわりの人から「結構グロいよ」とか「戦いが多い」と聞いていて、興味はありながらも深く入り込もうとすることなく今日まで来てしまいました。刺激が強そうという理由だけで拒否すると、その中にあるすごい名作を見逃すことにもなってしまうのですが…。
そういうわけですので、作品の考察についてはどうぞ「『鬼滅の刃』大ヒットの本当の理由とは?新ジャンル「役に立つメンヘラ」説」をお読みください。
さすがのお二人の記事で、私のように物語の内容に詳しくないものでも本筋が理解できるように、要所要所で的確な説明を加えてくださっています。
「他者の時代」「早期完了」「境界例的」など、普段の生活の中ではあまり聞きなれない単語もいくつか登場するのですが、一つひとつ丁寧に説明していただきながら読み進めるうちに、鬼滅の刃がなぜここまでの大ヒットとなったのか、その理由が大きな納得とともに腑に落ちました。
一つの物語が同時期に多くの人の心の琴線に触れる時、その背景には必ずと言っていいほどその時を包み込んでいる時代の雰囲気とも呼べるものが流れているのですね。
鬼滅の刃の場合、つまり現代においてのそれは「他者の時代」のものであると記事の中では解説されています。この物語はその他者の時代の中で、女性視点で描かれている境界例的な作品であると。
詳しくはぜひ考察記事をお読みいただきたいのですが、「女性視点による境界例的作品」という言葉を読んで、私はふと、過去に自分が出会った何人かの女の子たちの顔を思い浮かべました。
それは今から20年ほど前、おそらく日本がまだ記事の中で語られるところの「自己の時代」にあった頃の話なのですが、仲間とともに都会の真ん中で自分たちのための居場所づくりのようなことをしていた頃がありました。
有名大学の学生たちと元不登校児たちと十代の少年少女たちとが一つの場所で同じ時を過ごすという、少し特殊な状況がそこには一時期あったのですが、今考えればそこに集まってきていた若い世代には境界例的な特徴を持った人も少なくなかったように思います。
私の心に浮かんだのは、その中で交流のあった少女たちのことだったのです。
「自己の時代」の中においては、その特徴は今より表現されやすかったのかもしれません。感情的な行動や衝動的な行為に驚かされることも多かったけれど、その純粋さに触れることもまた同じくらいに多く、彼女たちとほとんど同年代として同じ目線で話ができたあの頃のことは、今では大事な思い出となっています。
今回のこの記事を読みながら改めて一人ひとりの顔が思い浮かんで、なるほど言われてみれば鬼滅の刃という物語の持つ特徴は彼女たちと似たものがあるかもしれないと思えました。
あの頃でももう十分に大変な世の中だと感じていて、だからこそ私たちはそうして都会のビル街の中で安全なひと時を作り出すことに精魂を傾けていたのだけれど、もしかすると当時の自己の時代の空気の中では泣き言が許されただけまだマシと言える部分もあったのかもしれません。
彼女たちの声は今の時代では鬼滅の刃のような作品の中に表現されているのだと思うと、ますます難しい状況の中にあって、何かそれでも懸命に光を見つけようとしているように感じました。
境界例的であってもなくても、「他者の時代」にある種の生きづらさを感じている人は多いのではないでしょうか。それでも考察記事の最後にあったように、他者の目というものに振り回されずに心と向き合っていく方法もきっとあるのですね。
あの頃、あの子たち一人ひとりの明るい未来を願わずにはいられなかったけれど。その人の人生を他の人が担うことは出来ないのだと気づけたのもまた、あの時の体験によってでした。
本当の意味で自分の心と向き合えるのは、自分自身でしかありえない。
時代は変わっていくけれど、その思いは変わらず、一つの真実として私の胸の中に残っています。
個人的な感想になりましたが、何か少しでも、皆さんの心と響き合うものがあれば嬉しいです。
お読みいただき、ありがとうございました。