こんにちは、末富晶です。
私は現在、型のない生け花の教室を開いているのですが、今回は私が日常的に関わっているその「おはな」と呼ばれる世界のことを書いてみようと思います。
多くの人にとってはあまり馴染みのない話かもしれないし、逆に様々な流派で華道に携わっている方にとっては頷ける内容ばかりとは言えないかもしれないのですが、元不登校児が関わったちょっと変わった生け花の話、そんな世界もあるのだな、と、広い心で読んでいただければ幸いです。
そもそも、生け花とイデアサイコロジーに一体どんな関係があるのかと不思議に思われる方も多いかもしれません。
お花を生けることと人の心のことが並べて語られている状況に出会う機会は、一般的にはあまり多くない気がします。
けれども私は「花は生けた人の心そのもの」だと言ってもいいくらい、生け花と心の間には深い関係性が存在しているといつも感じています。
一つ一つの植物を自ら花器に入れる。
たったそれだけのことで、出来上がった作品はもう生けたその人の持つ空気感をまとい、生けられる前の状態とは全く変わるもので。
何度目にしても本当に不思議に思うのですが、例えば同じお花屋さんからやって来たまったく同種のヒマワリの花が、生けた人の心の状態によって、楽しげにも儚げにも見えてくる。
そしてもっと不思議なことに、その生け花の中に表れてきたものが、生けた本人の自覚している心の状態とはまったく違う場合も実は多くあるのです。
つまり、本人は「何も問題なく元気いっぱい」のつもりなのに、生けた花に違和感が漂っていたり。
逆に「このところ嫌なことが重なって全く調子がよくない」と半ば諦めとともに生けられた花が、できあがってみれば思いもよらぬ美しいものとなったり。
そういう「本人が思っているものとは逆の状態」が、生けられた花の中には、ごく普通に表れてくることがあります。
経験の中で、私はそういう時は、生け花の姿の方がその人の本当の心の状態であると思うことが多くなりました。
人は自分のこと、特に自分の心のことは、最も身近な存在としてすべて知っていると考えがちだけれど。はたしてそれは、本当でしょうか。
生け花が伝えてくれるように、人の心というものはそんなに単純なものではなくて、自分自身ではっきりと見えているものの奥にも、もっと深い広がりを持つものだと思えます。
一番表面の自分で見えている層の心の色が、例えば何度見ても白だと思えたとして。だけどもその奥に、本当はずっと昔から抱きつづけている、赤や青や黄などたくさんの色の存在があって。
植物を生ける時には、その表面的な心のもっと奥の方から来るものが、きっと大きな影響を与えているのだと思います。
「元気いっぱい」のつもりなのに違和感が出る時、それは心の奥では疲れているのに気づいていないということかもしれないし、あるいは「元気いっぱい」な自分に固執するあまりそうではない状態を知っていながら否定したくなっているのかもしれないし、もしかしたらただ単に「今日はうまくいくぞ」という過度な期待がそうさせた結果なのかもしれません。
原因はもちろん、その時によって異なるもので。その場で突き止められる時も、そうでない時もどちらもあるのですが。
どちらであろうと、大事なのはそこで、自分の判断と表れてきた生け花の状態が違うことに自分自身できちんと「違和感を持つ」ということなのだろうと思います。
― こうだと思っていたけれど、本当は全く逆かもしれない。 ―
そうやって自分を、いつもよりもう少し外側から眺めてみることで、普段は見えていなかった心の内部にも入っていくことができる。
長く生け花をしていると、そうして知らず知らずのうちに心の旅が始まっていたと気づく瞬間があります。
お花をとおして培ってきたその「いつもとは違う見方」が、いつの間にか日常のものとなり、普段の暮らしの中にも当たり前に存在してきて。だんだんと、花を生けていない時にも、生け花の世界と同じ目線で自分自身の心を見るようになる。
あるいは心と向き合うこの旅路のことを、古くから人は「道」と呼んだのではないか。
そんな風に思えたのは、自分がいつの間にか道を歩んでいると知った後のことです。
現代社会の常識に沿って「その道に入ろう」と決めることさえも必要なく、その中にずっといた自分を後になってから発見するような世界。
そこで何が起こり、何を学び、どこにたどり着くのか、事前には全く知りようもない世界。
そんな世界もまた、ここには同時に存在していると感じています。
「今日はきっとうまくいかない」そんな弱々しい状態の時に逆に素晴らしく美しいものが出来上がることがあるのは、その弱さが調子の良い時の驕りや過信をおさえてくれて、結果的にその人自身が持っている本来の輝きに焦点があてられるからではないかと思います。
その場合は調子の良い時にもそのことを忘れず、自分を律していくことがその人の課題、つまりは道を歩む上で現れてくる乗り越えるべき壁となるでしょう。
言うは易く行うは難しということは、道を歩いている人なら誰もが身に染みて知っていることで。だからこんなことをわざわざ言葉にするのは本当は憚られるべきなのかもしれませんが。
だけどその「道」の世界はまた、「結果」ではなく「過程」を重視する世界でもあるから。
行い難い状況にあったとしても、本当は悲観的になる必要はないのかもしれません。
うまく行く時も、いかない時も。
望む心の状態で在るときも、そうは在れない時も。
未熟な自分も、壁を越える達成も。
そのどれか一つの状態にだけ、価値があるのではなく。
すべてが大きな成長の物語として語られるような。
ありとあらゆる過程を内包した円の中を、めぐるような生き方もある。
そしてそれは、心の探求の道そのものと呼んでいいものではないかと、私自身は考えています。