※ネタバレあり
こんにちは。ライター&編集の「まきしむ」です。
私と『鬼滅の刃』の出会いは、アニメからでした。
感度の高い周囲のオタクたちが口々に「面白い」と言うもので、とりあえず第一話を見てみたら、絵のキレイさに度肝を抜かれたのを覚えています。
あの線の書き方とか、忠実な原作のアニメ化って感じでスゴイ良い。
ただし最初見た時は「絵がキレイなだけかな」という印象でして(ごめんなさい)。ただ、あの頃は回を追うごとに「ざわ…ざわ…」と「鬼滅人気」がにじり寄る空気を肌身に感じていました。
結局、禰豆子が戦いに参加してからは、私もいつの間にか鬼滅世界にのめり込んでしまったのですが、「社会現象」と言われるほど人気が出た理由には、ずっと首を傾げていたんです。
だって、はっきりとした理由は「プロでもわからん」と言われているほどなんですよ。マジかよ。
「鬼滅の刃」プロも説明に困る人気ぶり 世代間のギャップも
https://news.yahoo.co.jp/byline/kawamurameikou/20200517-00178744/
そこで私はさっそく、元臨床心理士の星乃さんに突撃。すると、どんなところでも聞けないような、めちゃくちゃ面白い仮説が飛び出てきました。
それは鬼滅は「役に立つメンヘラ」という新ジャンルだということです。
「メンヘラ」というのはあまり良い意味では使われないネットスラングです。「鬼滅とネットスラングを並べるとは何事か!」とお怒りになる方もいるかもしれませんが、決して鬼滅もメンタルが不安定な方もディスっているわけではなく、人の心の癖のカテゴライズ的なものだと前置きしておきます。結果的に、これ以上この作品を言い当てている言葉はないと私自身納得できたので、このタイトルにしました。
果たして「役に立つメンヘラ」の意味とは? 『鬼滅の刃』にみんなが惹かれたのはなんで?
そのふか〜い理由を紐解いていきましょう。
「飲むか飲まれるか!?」境界例の意識構造と絆の追求
衝動・攻撃性=鬼『鬼滅』は作者の心の世界
鬼舞辻無惨は「消えてしまう恐怖」を端的に表すキャラ
他者の時代は超自我に従順な主人公が好かれる
「長男だから」の衝撃「自我同一性」の確立と早期完了
カッコよく心の闇と向き合うことができる、魂の癒しの物語
『鬼滅』は2010年代以降の日本人を象徴する作品
まきしむ(以下まき):累計6000万部を売上げ社会現象ともなった『鬼滅の刃』が、ついに連載に幕を閉じましたね!いや〜面白かった。でも正直、私みたいなオタクの間ならまだしも、なんでここまで広い層に流行したのかちょっとわからないんですよね。この『鬼滅の刃』の大ヒット、星乃さんはどう思いますか?
星乃:私は漫画もアニメも見てなかったんですが、つい最近、オリエンタルラジオの中田敦彦さんが『鬼滅の刃』の大ヒットの理由を分析しているYoutube動画を見たんですよね。それで興味を持って、アニメを観てみました。
まき:へ〜中田さんも『鬼滅』を紹介してたんですね! どんな分析をしてたんですか?
星乃:中田さんは「伝統と革新とインフラ配信」に理由があると言ってましたね。伝統は、男性の王道である(1)鬼・血統・呼吸(2)侍・刀・組織(3)敵の力を持つ味方という3つの要素から成り、そして革新とは、女性的な感性から描かれる(1)人格者の主人公(2)守られつつ戦うヒロイン(3)家族愛という3つの要素から成っていると言っていました。
まき:なるほどー、わかりやすい! 私も鬼滅の刃がここまで流行ったのは何でだろうとずっと考えてて、色々考察記事を漁ったんですよ。大体あっちゃんが言ってたこと同じなんですが、一番言われてたのはufotableの美麗な絵でアニメ化されたのが大きいってことです。確かにアニメ化で読者層が広がったと思うんですが、過去にジャンプで連載しててアニメ化で人気が出た作品なんて山程あるんですよ。でもアニメ化で話題になる前の『鬼滅』の発行部数は13巻までで300万部ほどで、進撃の巨人なんて4巻で400万部あるんですよ。10年来の少年漫画の中で異例の少なさなんですよね。ということは、本当に刺さったのはジャンプの読者層以外なんじゃないかなと思うんです。
星乃:そうなんですね。私も中田さんの分析はその通りだと思うのですが、アニメを観ていくにつれて、それ以上に、この『鬼滅の刃』は今の日本人と時代を映すかなり重要な作品だと感じてきたんです。拙著の『奥行きの子供たち』で『新世紀エヴァンゲリオン』を取り上げて「エヴァは1990年代を象徴する作品」だと書いたけど、『鬼滅の刃』はエヴァと匹敵するような作品なんじゃないかと。
まき:エヴァと匹敵ってマジですか? 確かに社会現象といっていいほどの盛り上がりですが…
星乃:うん。まさに、『鬼滅の刃』は2010年代以降の日本人を象徴する作品だと思うんですよね。
まき:エヴァは90年代半ばでしたもんね。鬼滅の刃はどんなところが2010年代的なんでしょうか?
星乃:『エヴァ』は「自己の時代の境界例的作品」ですが、『鬼滅の刃』は「他者の時代の女性視点による境界例的作品」なんです。
まき:ん? 他者の時代の…? 境界例? えっと、確かに当時のエヴァファンは男性が中心でしたよね。今回は女性視点ということでしょうか。そういえば最近、作者さんが女性だということで話題になってましたね。ポイントは他者の時代、女性、境界例の3つということでしょうか。ちょっと1個ずつ説明が必要ですね。まず、境界例についてお聞きしようかな。
「飲むか飲まれるか!?」境界例の意識構造と絆の追求
星乃:うん、境界例っていうのは、心の病気の一種で「境界性人格障害」「ボーダーライン」と呼ばれている病気のことです。統合失調症と神経症の境界のような症状を示すので「境界例」と言われているんですね。境界例の患者さんは「見捨てられ不安」や空虚感、抑うつ、怒り、孤立無援感、自暴自棄などの感情を持ち、それを緩和させるために周囲の人々の援助、愛情を渇望します。そのため、自殺未遂、リストカットなどを繰り返し、周囲の人たちを振り回してしまうんです。
まき:ネットでよくいわれる「メンヘラ」さんのことかな…?「私、あなたがいないと死ぬから!」みたいなシーンをよく見るような。
星乃:そうですね。境界例のなかでもかなり強く特徴的な症状が出ているケースのことやそれに類似する行動をするケースのことをネットでは「メンヘラ」と呼んでいるんでしょうね。
まき:そうですよね。『奥行きの子供たち』では、星乃さんは庵野監督ご自身が「境界例的」だと言ってましたが、もしかして『鬼滅の刃』の作者の吾峠呼世晴さんも「境界例的」だと?
星乃:そうですね。「境界例的」とは、境界例の患者さんという意味ではなくて世界観が似ているという意味ですが、私はアニメを観て吾峠呼世晴さんもめちゃめちゃ境界例的だと思いました。ただ、時代が異なり、女性だということで『エヴァ』とはかなり違いも出てきます。
まき:なるほど……吾峠呼世晴さんも境界例的か。じゃあ『鬼滅の刃』では、主人公の炭治郎や妹の禰豆子も境界例的なキャラだということですか?
星乃:そうですね。でもその二人だけではなく、敵の鬼にもかなり境界例的なキャラが出てきますし、全体に流れるテーマも非常に境界例的なものになっています。
まき:言われてみれば、下弦の伍の累とかは確かに境界例っぽいかも……テーマも境界例的なんですか?
星乃:そうなんです。まずこれを説明するためには、境界例の意識構造についてお話しないといけません。境界例は、フロイトの発達段階の口唇期と関係していると言われているんですよね。
まき:えっと、口唇期っていうのは?
星乃:口唇期は0歳から1歳半くらいの時期のことです。赤ちゃんは生まれたばかりのときはまだ世界やお母さんと一体化している感覚でいるのだけれど、だんだん世界が「自分と自分じゃないもの」に分かれていくのね。自分と言っても、身体を自分と思っているわけではなくて、快不快や身体の感覚の総体のようなぼやっとしたものです。そして、「自分じゃないもの」も、おもちゃやお母さんお父さんそのものとして分かっているわけではなく、なにか分からない自分以外のものという認識となっています。
まき:ふむふむ。
星乃:その頃の赤ちゃんは、お母さんのお乳を吸うことが快感につながるでしょ。なので、口唇期と言われているんだけど、この頃の根本的な欲求は、「自分以外のもの」を飲み込んで一体化することだと私は考えているんです。そして、そのとき逆に飲み込まれて「自分が消えてしまう恐怖」も生じてきます。
まき:まじですか…!まさに「飲むか飲まれるか」の勝負なわけですね…!
星乃:うん(笑)。その「消えてしまう恐怖」を大人になっても持ち越して、口唇期の世界観を通して世界を認識してしまうことから境界例の症状が生じると私は考えているの。で、その「消えてしまう恐怖」を打ち消すために、境界例の人は周囲の人達との深い絆を求めるんですよね。他人に愛され、認められ、必要とされることでこの世に繋ぎ止められると考えるんです。
まき:……あそっか、その「深い絆」の追求ってのが『鬼滅の刃』のメインテーマってことなんでしょうか?
星乃:そうですね。アニメの最終回の主人公炭治郎の最後のセリフも、「俺と禰豆子の絆は誰にも引き裂けない」「俺と禰豆子はどこへ行くときも一緒だ。もう離れたりしない」でしたね。こういう終わり方の少年漫画系アニメってあんまり見ない気がします。
まき:マジでそうですね。これって、作者が境界例的な女性ってことが大きいんでしょうか?
星乃:そうだと思います。作者自身が求めてやまない究極の価値なんじゃないかな。『エヴァ』のアニメはシンジくんの「ここにいていいんだ」で終わりましたが、これは「もう消えない」という安心感を獲得したという意味で、シンジくん個人に焦点が当たっていましたね。それに対して、『鬼滅の刃』では炭治郎と禰豆子の絆が永遠に続くんだということがクローズアップされています。これはやはり女性ならではの視点なんじゃないでしょうか。
まき:なるほど。同じ境界例的な作品でも男性と女性で違いが出るのか。
衝動・攻撃性=鬼『鬼滅』は作者の心の世界
星乃:うん。あと、時代性の違いとかもあるんだけど、それはまたあとで説明しますね。じゃあまた説明に戻るけど、もうひとつ、境界例的なひとたちが「消えてしまう恐怖」を無くすために必要だと考えるのが、個性、つまり、自分が人と違っていることなんですね。そうすれば存在価値があると感じられるわけです。
まき:炭治郎も禰豆子も特別な才能を持っていますしね。禰豆子が鬼として覚醒したときは胸が熱くなりましたね!主人公がピンチでも、そばにいるだけで「でも禰豆子いるしな」っていう妙な安心感がある(笑)。
星乃:そうですね。あとは、境界例的な人たちは、感情や衝動・本能を自分と感じる傾向があるから、理性で自分を抑えたり、常識や社会的価値感で縛られるのが嫌いという特徴もあります。感情が自分の本質だと感じているので、感情を抑圧したり否定されると自分が「消えてしまう恐怖」が襲ってくるんですよね。ですから、境界例の患者さんは衝動的・攻撃的なんて言われます。
まき:そっか…もしかして、その衝動や攻撃性、本能の部分が『鬼滅の刃』では鬼として表現されてる?
星乃:そうなんです。きっと吾峠さんの中ではそういう設定なんじゃないでしょうか。作品中にも「鬼はむき出しの本能のまま理性をなくし、人を殺す」ってセリフがありましたね。『奥行きの子供たち』では「エヴァは庵野監督の心の世界」と書きましたが、『鬼滅』も吾峠さんの心の世界であることは間違いないと思います。キャラたちは吾峠さんの分身でしょう。
まき:え、でも、主人公の炭治郎はめちゃくちゃおだやかで優しいいい子って設定ですよね。それって、境界例っぽくないように思いますが。
星乃:でもね、境界例の方とつきあうと分かるけど、みんな根はものすごく優しくて純粋なんですよ。炭治郎はたぶん、境界例的なひとの一番優しくて純粋な部分を表しているんじゃないかな。そして、境界例的なひとは、共感能力にものすごく長けていて、相手の感情や考えを即座に感じ、先読みして一言一言を発するところがあります。
まき:そっか、だから炭治郎はニオイで他人の感情が分かるって設定なのか。
星乃:うん、私はそう思ったんですよね。境界例的な人の感情察知能力が高いのは、相手との間に本当の絆があるかどうか見極めるためで、相手が少しでも世間体や常識などから建前を言ったりすると即座に見抜くんです。そして、状態が悪くなっていくと、愛情を確かめるために言葉巧みに周囲を操作し、少しでも絆がないと感じると暴れたり、自傷行為をしたりするようになっていきます。家族や周囲の人はそこまでの共感能力がない場合が多いから、本人の感じ方考え方がわからずおどおどするばかりで、余計に本人の感情を逆なでしていくんです。本人は愛情や絆を確かめたいだけなんですけど。それゆえに境界例的な人は「自分は人と違う」という疎外感を感じる場合があって、たとえば私の担当していた患者さんは、自分が家族から怪物と思われていると言っていたこともあります。
まき:それって、まんま下弦の伍の累って鬼のエピソードですね。鬼になって人を殺したことで両親に殺されそうになったために両親を殺し、鬼の疑似家族を作って他の鬼を操作して絆を感じようとしていたっていう。
星乃:そうですね。この累のエピソードは境界例の患者さんを持つ家族の最も闇の部分を表現しています。
まき:じゃあ、『鬼滅』で人気の妹の禰豆子はどういうキャラなんでしょう? 私はこのヒットには禰豆子がすごく重要な役割を担っているような気がするんですが。
星乃:まきしむもそう思った?実は私もそう思うんですよね。禰豆子は、吾峠さんの中の、境界例的な特徴を持ちつつも、なんとか現実世界で適応して生活していこうとしている部分を表現しているんじゃないかな。
まき:はー、なるほど。だから、衝動を出さないように竹をくわえて必死に我慢しているわけだ。
星乃:うん。ふだんはそれを抑えるのに必死で疲れ切っているから寝ている。そして、夜が好きっていうのも境界例っぽいし。
まき:でも、なんでそれが大ヒットにつながるんです?
星乃:うん、それは禰豆子の設定が、もともとは大人しくて礼儀正しくて優しくて非の打ち所がないいい子がたまたま運悪く鬼にされた、そして、兄炭治郎に命がけで愛され大切にされている、ふだんは寝ていてもなにも言われない、そして、衝動を鬼退治に活かすことができる=存在意義があるということになっているのが大きいと思うんです。
まき:っていうのは、境界例の理想の治療過程ってことですか?
星乃:そうですね、あくまでも患者さん側からのだけどね。まず、自分は本当は純粋で良い子で運が悪かっただけと思えるし、衝動を我慢しつつ鬼を退治すれば存在意義も感じられる、あとはなにも考えず寝て待っていれば家族がすべてやってくれて愛を与えて治してくれるという理想的な状況なわけ。つまり、境界例的な特徴を持つ人、特に女性にとってあこがれの理想的な環境。「自分も禰豆子のように扱われたい」「炭治郎みたいな人がいたら…」って思うよね。
まき:なるほどねー! 『鬼滅の刃』は今までのジャンプ作品と違って女性ファンが多いらしいですからね。それに、いまってネットでは特に「メンヘラ」ってバカにされて嫌われるんですよ。それを、『鬼滅』はカッコよく表現してくれたってことですかね。
星乃:そうですね。境界例的な文化がカッコいいとされていた90年代に比べると、現在は境界例的なひとには生きにくい時代になっていますからね。
鬼舞辻無惨は「消えてしまう恐怖」を端的に表すキャラ
まき:でも、さすがにラスボスの鬼舞辻無惨は境界例なんて繊細な人じゃないですよね…?
星乃:彼は人間時代に病弱だったことから、死に対して非常に大きい恐怖を持っているって設定ですよね。これは、まさに境界例の「消えてしまう恐怖」から来ているものだと思います。現実的に考えれば「消えてしまう」=「死」となりますから。実際、境界例的な人の中には死を異常に怖がる方もいます。ですから、無惨というキャラは、吾峠さんの根本的な「消えてしまう恐怖」を端的に表すキャラなんじゃないかな。
まき:そうなんですねー、『鬼滅』ってなにからなにまで境界例的なんだ。そういえば無惨って部下を責める時、殴る蹴るじゃなくて、「私はもうお前たちに期待しない」とか「貴様らの存在理由がわからなくなってきた」とか言うんですよ。これって、やっぱ「見捨てられ不安」を刺激しようとしてるんですかね。
星乃:そうかもしれません。吾峠さんにとって一番イヤな言葉が「見捨てられ不安」を刺激するそのような言葉なのかもしれませんね。それから、もうひとり境界的な特徴があって面白いと思ったのが、珠世です。
まき:えーっと、無惨から逃げてきた鬼でお医者さんの女性ですね。炭治郎たちを助けてくれる。
星乃:そうですね。珠世と炭治郎・禰豆子との別れ際のシーンで、禰豆子が珠世に抱きついた後、珠世が「人間扱いしてくれた」と泣きますよね。これもさっき話したけど、境界例的な人が自分は普通じゃないという疎外感を持っていて、それでも他人がそんな自分を受け入れてくれることを本当は切望していることを表していると感じました。
まき:なるほど、そういうところにも境界例的な読者は惹かれるのかもしれませんね。そういえば、下弦の伍の累も、最後死んだ後死後の世界で両親に再会して、地獄に行ったとしても「ずっと一緒だよ」と言われて泣くというシーンもありました。
星乃:そうでしたね。境界例的なひとって結局その言葉を待っているんですよね。それから珠世って、術を使う時に、腕を自分の爪で傷つけて血を流すでしょ。あれって、境界例の患者さんがよくやるリストカットにそっくりですよね。
まき:たしかに。境界例の人のリストカットって、生きていることを確認するためにやるって聞きますけど、そうなんですか?
星乃:うん、私は「消えてしまう恐怖」を軽減するために、痛みを感じ血を見ることで、存在していると確信しているんじゃないかなと思っています。だから、基本境界例的な人は刺激の強いものが好きな傾向があります。エログロとかね。『鬼滅』もけっこうグロいし、吾峠さんの以前の作品もそういう刺激の強いものが多いと聞きます。
まき:そういえば、漫画の方で出てくる鬼舞辻無惨配下の鬼、“上弦の伍”の玉壺は芸術家っていう設定で、そういうグロい死体を使った作品を作ったりしてるんですよね。
星乃:そうなんですね。実際、境界例的な人には芸術家肌の方が多くて、ミュージシャンや作家など創作系の仕事で成功されている有名人もたくさんいるんですよ。アニメの方で出てくる鬼の元下弦の陸・響凱も、人間時代は売れない小説家で趣味が鼓って設定でしたしね。
他者の時代は超自我に従順な主人公が好かれる
まき:なるほど、そんなところにも境界例的な設定があったんですね。そういえば、90年代末は特にグロ系のものが流行ってましたね。完全自殺マニュアルとか、死体の写真を集めた雑誌だとか。
星乃:そうですね。さっき90年代は自己の時代と言ったけど、『奥行きの子供たち』では「境界例的な時代」と書いています。意味は同じです。自己の感情や内面を表現することがカッコよかった時代です。あのころは、境界例の患者さんもアイドル的な扱いを受けていたのに、いまでは「メンヘラ」ですからね。
まき:すごい変わりようですよね。ちょうど時代の話になったので、次に最初の3つの要素の中の「他者の時代」について聞いてもいいですか?
星乃:そうですね、90年代は自己の価値が高く、主体的に行動することがよいとされていました。それが、2000年代初頭以降、自己の価値が低下し、自分よりも他人や社会、権威の意向をうかがって生きることがよいとされる風潮が生じてきたんですよね。これが私が「他者の時代」と呼んでいる時代です。感情よりも思考や科学的知識の価値が高いとされます。ですから、感情主体で生きる境界例的な「メンヘラ」は非常に嫌われるんですね。
まき:さっき「『鬼滅の刃』はカッコよく境界例を表現した」って話が出ましたが、それって境界例的なものが「他者の時代」に合わせて表現されているってことですか?
星乃:そうですね。そこが『鬼滅の刃』人気の核心なんじゃないかと思っています。これを説明するには、やはり同じ境界例的作品で自己の時代の『エヴァ』と比較するのがわかりやすいと思うんですよね。『エヴァ』の放映が始まったのが、1995年です。90年代前半まではまだ社会の中に「人間とはこうあるべき」「男性とはこうあるべき」という考え方が強い時代でしたが、このような善悪の基準で人間の心を上から縛るような心の機能をフロイトは超自我と呼びます。
まき:境界例的な人が一番キライなやつですね。常識とか社会、権威、現実、仕事の象徴でもあるんですよね。
星乃:そうですね、実際『エヴァ』では父ゲンドウが超自我となっていますが、シンジくんはゲンドウに反発します。シンジくんのキャラ自体がそれまでのアニメの男らしいキャラとは正反対の弱々しくてわがままで主体性もなくやる気もないというキャラでしたから、キャラ自体がもう超自我に反発しているんです。『奥行きの子供たち』では、そういう超自我への反発というテーマが、超自我に飽き飽きしていた若者に「そのままでいいんだよ」というメッセージになったのではと書いたんですよね。
まき:そうでしたね。じゃあ、『鬼滅』では超自我はなんだろう。
星乃:おそらく、面倒を見てくれる鱗滝左近次、そして鬼殺隊の最高管理者、産屋敷耀哉になると思います。ただ、彼らは炭治郎に協力的で優しく、人格者なんですよね。そして、炭治郎もこの人達に絶対反発・反抗はしません。それどころか、彼らのために役に立ちたいと思っているように感じます。
まき:なるほど。ゲンドウとシンジくんとはえらい違いだ。シンジくんは超自我に反発するけど、炭治郎は超自我の言うとおりに動くいい子なんですね。
星乃:90年代までは自己の価値が高く、まだ超自我に反発する力があったのが、2000年代初頭以降は自己の価値が下がり、他者や権威の価値が上がったため他者や権威の意向を伺いながら動くことがいいこととされるようになりました。それを『鬼滅の刃』ではストレートに表現していますよね。
まき:本来境界例的なひとって権威や常識は嫌いなはずなのにね。
「長男だから」の衝撃「自我同一性」の確立と早期完了
星乃:そうなんですよね。そこが『鬼滅の刃』の面白いところでね、境界例的な特徴と他者の時代の特徴が両方備わっているんですよ。私、『鬼滅』のなかですごく衝撃的だった炭治郎のセリフがあってね、「俺は長男だから痛みに我慢できたけど、次男だったら無理だったかもしれない」「俺は今までよくやってきた、そしてこれからも!俺がくじけることは絶対にない!」ってやつなんだけど。
まき:それそれ!私も衝撃でした!いままでの少年漫画では見たことがないセリフですよね。
星乃:このセリフって、「自分は家族の役割に同一化しています」「その価値基準のなかで一生懸命役割を果たしてる」って宣言なんですよね。これって、心理学的にはどう見ても親や家庭の価値観を取り入れてしまっていて自我同一性(アイデンティティ)が確立できてない状態なんです。また説明になっちゃうけど、「自我同一性」とは、これまでもこれからもこの自分であるという「一貫した自分」や「これこそが自分自身だ」という感覚のことを指します。人間は13〜14歳前後から自我同一性確立への課題に向き合うことになるんです。
まき:ふむふむ。
星乃:で、心理学者マーシャは、この自我同一性を確立するためには、「危機」と「傾倒」という2つの条件が必要だと考えたの。「危機」とは、それまで当たり前だと感じて取り入れていた価値観に対して迷いを感じ、自分はこれでいいのかと考え始めること、「傾倒」とは、自分で選択したある特定の事柄に対し、興味関心を持ち、積極的に関わることです。そして、マーシャはこの「危機」と「傾倒」の組み合わせで、自我同一性を確立するまでには4つの段階があるとしたの。それが「自我同一性達成」「モラトリアム」「早期完了」「自我同一性拡散」です。炭治郎はこの中の「早期完了」の状態と考えられます。
まき:えっと、その「早期完了」っていうのは、どういうことなんでしょうか?
星乃:うん、早期完了というのは、児童期に親や家庭環境の影響が強すぎると、13〜14歳ころになっても危機を経験せず、親や家庭環境の価値観をそのまま自分の生き方として取り入れてしまって、本当の自分の人生を生きられなくなるって状態のことを言います。
まき:なるほど。炭治郎は「危機」を経験していないのか。じゃあ、どうしたら自我同一性を確立できるんでしょうか。「傾倒」と言われても、よく分からないですよね。
星乃:うん。私は、自我同一性を確立するための「傾倒」という概念が、実はさっき話した乳幼児期の世界の認知様式と関係していると思っているの。乳幼児期に形成される認知様式には境界例的なものの他にもたくさんあって、その認知様式から生じる欲求や不安を意識化することが自分の本質とつながるということだと思っているのね。
まき:自我同一性を確立するには「危機」を経験し自分と向き合って、乳幼児期の認知様式から生じる欲求・不安を感じることが重要ということですね。で、さっきの炭治郎の「早期完了」と「他者の時代」って関係あるんですか?
星乃:うん、「他者の時代」では自己の内面と向き合うことや感情そのものが軽視されるので、この乳幼児期に形成される自分の本質とつながることが難しくなり、他者、家族、親、権威の力も強くなって、なおさら「早期完了」になりやすくなるんです。
まき:そっか。でも、『鬼滅』はかなり境界例的な特徴を表現していますよね。
星乃:そうですね。境界例的な感情ともつながっていてそれも表現できているんだけど、そのうえに「早期完了」の価値観が加わっているんですよね。シンジくんは意識的に超自我に反発していたけど、それは自己の時代だから許されたのかもしれないですね。他者の時代では、超自我への反発や境界例的な衝動や攻撃性は主人公が持つことは許されず、人間がどうすることもできない鬼という存在を通してしか描けなかったのかもしれません。
まき:そっか、炭治郎は他者の時代の早期完了の価値観が加わった、境界例的な人のいい部分だけを抽出したキャラということなんですね。逆に禰豆子は、珠世の屋敷で炭治郎たちが真剣な話をしているときにも、寝転がってぶらぶらしているんですよね。初対面の人の家に呼ばれてるのに。やっぱ、禰豆子を通して、境界例的な礼儀や常識が嫌いという部分を出してるのか。
星乃:うん。私はそう思ったのよね。吾峠さんの他の境界例的な闇の部分は鬼に任せた。それでも、絶対に最後はどんなに極悪な鬼でも肯定するし、決して親や家族を悪く言わないんですよね。あくまでも他者を大切にし、自己が他者を超えることがない作品になっています。
まき:ですよね、それが今の時代の好まれる条件なんですね。90年代までは、自己の地位や強さ、信念みたいなのが追求されたんですが、『鬼滅の刃』はそんなことには見向きもせず、あくまでも禰豆子を救うため、他者との絆を守るためですからね。
星乃:そうですね。禰豆子もただ守られているだけではなく、一緒に戦って他人の役に立つキャラじゃなければならなかったんですね。
まき:そっかー、役に立つメンヘラかー。じゃないと、他者の時代では受け入れられないと。
星乃:そうなんですよね。他者軸で動く早期完了でかつ境界例的って作品があるのも驚きでしたが、それが大ヒットして社会現象にもなるという時代になったんだなというのが本当に衝撃でしたよね。先日ツイッターでは「長男だから」というセリフで更に応援したくなったというツイートも見かけましたし。
まき:いまは役割がないと生きていく価値がないみたいな考えが広い層に浸透していると思います。役割を踏まえた上での絆というか。
星乃:そうなんですね。でも、それは本当の絆ではないし、本来境界例的な人が最も嫌うものなのにね。でも『鬼滅の刃』では役割と本当の絆が共存しているのが非常に興味深いですよね。
まき:相反するもののいいとこ取り、フュージョンって感じですね。
カッコよく心の闇と向き合うことができる、魂の癒しの物語
星乃:ホントにそうですね。ただ、時代性抜きに『鬼滅の刃』を見ると、私は吾峠呼世晴さんの魂の癒しの物語に見えるんですよね。ユング派の心理療法のような。吾峠さんの無意識にある衝動性・攻撃性の鬼たちを、意識の中心的人格炭治郎が命がけで癒やしていく物語です。
まき:そういえば、鬼殺隊の最上級剣士「柱」である胡蝶しのぶは「鬼と仲良くする」というテーマを持っていましたね。
星乃:そうですね。「鬼と仲良くする」ということは、個人の心理療法の文脈で考えると、衝動や攻撃性を受け入れ、共存可能な形に持っていくという意味になります。『エヴァ』は、「こうあるべき」がまだ強かった自己の時代の中での「超自我の声なんて聞かなくていいんだよ」「ありのままでいいんだよ」というメッセージがヒットの大きな要因になっていたと私は考えていますが、『鬼滅の刃』は、他者の時代に他者の目を気にせず心の闇と向き合い、癒しを経験することができる物語になっているのではないかと思います。
まき:なるほど。心の闇と向き合うのはカッコ悪いこととされる現在において、カッコよく心と向き合うことができる作品なんですね。すごい、なんて画期的なんだ…!
2000年代初頭以降はあんまりおおっぴらに自分の心の闇と向き合う作品ってなかった気がします。でも、みんな本当は心と向きあって癒やされたかったのかもしれないですね。『鬼滅の刃』は、他者の時代の、女性の視点による境界例的作品であると同時に、読者にとっては他者の時代に合った形で心の闇を癒す物語でもあるんですね!
10月31日に「【鬼滅の刃】実は鬼こそ救世主だった!否定された欲望の正体」という記事をアップしました。
今読んでいただいた5月の記事では「作品自体の意味の分析」が中心になっていますが、この10月の記事では、最近話題になった「「鬼滅の刃」に女性が熱狂する理由」という記事をご紹介しつつ、「鬼滅が一般大衆にどう受けとめられたか」という観点から改めてヒットの要因について考察しています。
ぜひ読んでみてくださいね。