こんにちは、元臨床心理士の春井星乃です。
現在は、心理学・精神分析・エニアグラムを通して性格構造を明らかにする「イデアサイコロジー」を提唱しています。
この記事では、ナゾロジーの記事を読んでくださった方向けに、より突っ込んだお話をしてみたいと思います。
ナゾロジーの記事でも書きましたが、今回のコロナウィルスでは、個人個人の認識の違いが表面化しています。
オリンピックの延期が決まってからは感染者も増え、かなり緊迫感が出てきましたが、それまでは連日注意を呼びかけている専門家もいる一方で、お花見やK1や聖火見学などが盛況だったというニュースもあったり……という状況でしたよね。
SNSでは、「日本と海外の温度差がスゴイ」という海外在住の方からの声を見かけた方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。
この日本と海外の意識の違いはどこから来るのか、そして、日本人はどこに向かおうとしているのか、この記事ではもう少し踏み込んで考えてみたいと思います。
ナゾロジーの記事を「まだ読んでないよ」という方は、まずそちらを読んでからこの記事を読んでいただけると嬉しいです(^^)。
ナゾロジー記事はこちら↓
キリスト教と客観性
「主語がなくてもOK」日本語の精神
客観的意識と主観的意識の特徴
「超自我」と日本の社会的意識変化
「よい超自我」の減退と「他者の時代」の影響
コロナウィルスはゴジラ&使徒?
「日本人のあるべき本当の姿とは?」個人の力で「法外のシンクロ」を目指す時代
宗教と言語による精神構造の違い
ナゾロジーの記事では、個人的な意識発達の問題と日本の社会的意識の変化についてのみお話しましたが、それ以前の、日本人がもともと持つ精神構造を生み出すものとして、宗教と言語構造の問題があります。
これはいろんな分野ですでに言及されていることでもありますが、日本人の精神構造を考える際には必要な知識なので、簡単に説明してみますね。
それでは始めていきましょう!
まず、日本人と諸外国の方の意識の違いを考える時、宗教ならば「一神教と多神教」、言語構造ならば「主語が必要かどうか」の違いを見るのが最も分かりやすく、大きな影響を持つものだと私は考えています。
キリスト教と客観性
最初に宗教の問題から見ていきます。
一神教とは、世界を創造した唯一の神がいるとし、その唯一の神を信仰するものですよね。代表的なのは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などです。
一方、多神教とは多くの神が存在し、その神々を信仰する宗教です。日本の神道や仏教は多神教ですよね。
無宗教の多い日本人には、「一神教か多神教かでそんなに意識構造が変わるの?」と思ってしまう方も多いかもしれません。でも、実はこの一神教と多神教を信じる人の間には大きな意識の違いが生じてくるんです。
マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という本をご存知でしょうか?一般教養書として有名な本ですが、若い世代の方は知らない方も多いかもしれません。
私は、大学の時にたまたま授業で読んだのですが、「まさか資本主義がプロテスタントの精神から生まれたなんて」とすごく意外で面白いと感じたことを覚えています。
一神教で最も信者が多いのはなんといってもキリスト教ですから、一神教の精神を理解するには、このヴェーバーの考え方を知ることはとても重要です。
ヴェーバーは、プロテスタントの考え方から資本主義の精神が生まれたと考えるのですが、その理由は簡単に説明すると次のようになります。
(1)神によって救われた人間のみが天国に行くことができる。
(2)救われているかどうかは生まれる前からあらかじめ決まっている。
(3)人間には、自分が救われているかどうかを知る術がない。
(4)したがって、常に勤勉に働き、清く正しい生活をすることによって、自分は神に救われていると実感しようとする。
(5)労働してお金を稼ぐことが、人間のあるべき姿とされるようになった。
めちゃくちゃ要約するとこんな感じになります。
では、ここからどんな精神構造が生まれるのでしょうか。
まず、常に一者としての神から見られている、評価されているという意識が生まれてきますよね。それに加えて、周囲からも「あいつは勤勉じゃないから救われてないぜ」みたいに言われないかという意識が生じてきます。その意識は、常に自分を客観視する意識であり、周囲と共有された現実や真実を見ようとする傾向となります。
つまり、コロナウィルスの実態もきちんと検査して把握しようという意識になりやすいですよね。
先日、NHKで放送された今話題の哲学者マルクス・ガブリエルのドキュメンタリーを見たのですが、その中でアメリカの地下鉄ではスマホを見ている人があまりいないということを話していました。
日本ではかなりの数いると思いますが、こういう所にも「見られている」「きちんとしていなきゃ」という意識が働いているのかなと思いました。
また、今回のコロナウィルスの流行に関しては、キリスト教信者にとっては、キリストが再臨する前にはカタストロフィーが来るという黙示録の世界を思い起こさせるという部分もあるかもしれません。
ですから尚更、その無意識に植え付けられたイメージを刺激されて、かなりの恐怖感を感じる方が多いという可能性もあります。
それに対して、日本の神道には、神に選ばれる・評価される・見られているという考え方は一切ありませんよね。あくまで神話の登場人物だと考える人も多いし、天皇の祖先と考える人、日本人の生活を守ってくれる存在と考える人など様々です。
すると、ありのままの生き方を認められているという感覚が生じ、自分を客観視して律する、現実を見るという意識は一神教に比べると芽生えにくくなります。
また、神道にはキリスト教のようなカタストロフィーが来るというような予言もありません。
そうなると、どうしても現状維持を望む気持ちやのほほんとした楽観的な気分から抜けにくく、危険を察知して現実的な対処を行うことが難しくなりますね。
「主語がなくてもOK」日本語の精神
そして、それに加えて言語構造の違いも「一神教と多神教」の精神構造の違いと共通したものをもたらしてきます。
日本語は世界でもめずらしい、主語がなくても通じる言語です。そういう言語は日本語とあと1つくらいしかないと聞いたことがあります。
例えば、英語は常に「I」などの主語がないと成り立ちません。
I can see Mt.Fuji.
でも、日本語は
富士山が見える。
だけで、文章が成り立ってしまいます。必ずしも「私は」と入れる必要がないですよね。
「I」を常に使わなくてはならないということは、どういうことかというと、常に他人から見た景色を前提に会話や思考をするということなんですよね。他人からみた共通の景色には必ず「I」がいて、「I」が話しているよということを明らかにしないと話が通じないのです。つまり、英語を話す人は客観的な意識を強く持って生きることになります。
それに対して、日本語は自分の見たままの景色を前提に文章が作られます。自分の見た風景には自分がいないからです。これは、主観的な意識と言えますよね。
したがって日本人は、宗教的にも言語構造的にも客観的意識が弱く、主観的意識が強いということになります。
客観的意識と主観的意識の特徴
では、具体的には客観的意識と主観的意識がどのような特徴を持つのかについて見てみましょう。
客観的意識の良い点
・自我の確立がしやすい
・個性が尊重される
・能力主義・合理的・現実主義
客観的意識の悪い点
・協調性が低い
・共感性が低い
・格差を助長
主観的意識の良い点
・協調性が高い
・共感性が高い
・連帯感
主観的意識の悪い点
・自我の確立や個性が弱い
・出る杭は打たれる
・空気の支配・現実を受け入れ難い
この日本人と欧米人の違いについては、私が大学の頃から既に異文化研究という心理学の研究分野でもよく言われていたことです。
このような特徴から、日本では主観的意識の集合体としての「空気」「世間」のようなものが大きな影響力を持つのではないかと思います。
このもともとの日本人の意識構造の上に、さらにココロジーで書いた親子関係における意識発達や時代性が重なり、今回のコロナウィルスによって様々な問題が表面化したということなのかなと、私は思っています。
「超自我」と日本の社会的意識変化
そもそも、この主観的意識の良い点は高度経済成長や日本型組織、地域や大家族などの共同体において活かされていたものだと思いますが、その主観的意識の良い点が90年代から減退しはじめ、2000年代になって急激に失われてしまったと私は考えています。
それはなぜなんでしょうか。
私は、その原因は2つあると思っています。1つは「よい超自我」の減退、2つ目は「他者の時代の到来」です。2つ目の「他者の時代の到来」についてはナゾロジーの記事でお話したとおりですが、1つ目の「よい超自我」についてはまだこのサイトではお話していませんでした。
ではまず、「超自我」とは何かについてお話しましょう。
『奥行きの子供たち』の第2章「新世紀エヴァンゲリオン」の抜粋記事を読んでいただいた方はもうご存知だと思いますが、「超自我」とは心理学者フロイトの概念で、4〜6歳の男根期に生じる「〜すべき」と自分を上の立場から縛る心の機能のことです。
これは、言葉の発達とともに生じる善悪の概念をもとに作られるもので、子供はこれを取り込みながら自我を成長させていきます。また、「超自我」は仕事・義務・責任・社会・現実などを象徴するものでもあります。
私は、この超自我には「よい超自我」と「悪い超自我」の2種類があると考えています。
「よい超自我」とは、人間のあるべき理想像や成長の方向性、男らしさ・女らしさなどを維持する働きをするもので、「悪い超自我」とは、社会的規則・正しさ・地位・優劣などによって他人を縛り、支配・コントロールする働きをするものだと考えています。
「超自我」にはこの2つの働きがあるのですが、そのうちの「よい超自我」が90年代半ば、厳密に言うと1995年ころをきっかけに急激に失われていったんです。
この話は、『奥行きの子供たち』第2章抜粋記事にも書いてありますが、簡単に説明していきますね。
ナゾロジーの記事では、社会学者宮台真司さんの時代区分をご紹介しました。
実は宮台さんは、ナゾロジーの記事でお話した「自己の時代」をさらに2つに分け、70年代半ばから95年までを「自己の時代前半」、96年以降を「自己の時代後半」と言っています。
・戦後〜1960年:「秩序の時代」
・1960年〜1970年代半ば:「未来の時代」
・1970年代半ば〜1995年:「自己の時代前半」
・1996年〜:「自己の時代後半」
1960年までの「秩序の時代」は、階層や上下関係、地位などの関係性を遵守し、忠義と礼を尽くすべきという「超自我」の力が強かった時代だと言えます。
そこから、徐々に産業革新や高度経済成長で地方から都会に人が流れ、地域の共同体が壊れて、そこで共有されていた「こうあるべき」という共通価値、つまり「超自我」も減退していきます。
また、世界的なポストモダンの潮流やバブルの崩壊、地下鉄サリン事件などにより、95年以降、「超自我」の価値が急速に減退していきます。特に、「よい超自我」は95年以降、日本社会では影響力を持つことができなくなったと感じています。
例えば、モンスターペアレンツ、クレーマー、差別的発言、SNS上の暴言、攻撃など、おそらく「秩序の時代」の日本人には考えられない行動をする人も増えていますよね。
この出来事をよく象徴しているのが、95年にテレビ放映が始まった庵野監督の「新世紀エヴァンゲリオン」です。この作品は、「よい超自我」の人間はこうあるべき、男らしくあるべきという声に疑問を持っていた若者たちに「君たちはそのままでいいんだよ」というメッセージとして受け取られ、「よい超自我」の価値の凋落を象徴していた作品だったのではないかと思っています。
詳しくは、ぜひ『奥行きの子供たち』第2章抜粋記事を御覧ください(^^)。
「よい超自我」の減退と「他者の時代」の影響
説明が長くなりましたが、ここからやっと本論に入ります。
さて、主観的な精神構造を持つ日本人が、日本型組織で高度経済成長を遂げ、その製品や人格、生活様式などが世界から評価・信頼されていたのは、武士道や恥の意識、封建的な秩序意識などの「よい超自我」の影響力が強く残っていたからなのではないでしょうか。
主観的で空気に流される日本人は、強力な「よい超自我」という空気があったからこそ、協調性をもって連帯し、お互いを思いやり、努力忍耐のできる高潔な人物でいられたんじゃないかと思うんですよね。
でも、そこから「よい超自我」が消えるとどうなってしまうでしょうか。常に他人の顔色を伺い自主性がなく、都合の悪い現実を見ない人間になってしまいます。
それに加えて、2000年代初頭からは「他者の時代」となり自己の価値が失われると、感情の価値も低下します。すると、自分の本質と繋がれなくなり、さらに自己肯定感が低下します。
そして、ただでさえ空気に流される傾向があるのに、他者の考え、社会的基準を重視するようになり、自分の本質がどんどん消えてしまいます。
すると、ナゾロジーの記事でお話したように、自我同一性を確立することができず、自分以外の崇高なもの、国・思想・専門知識・仕事・性別などに同一化しはじめます。
そして、そのイメージを守ることが第一優先事項になるために、客観性がさらに失われて都合の悪い現実を見ず、相反する意見や人物を批判・攻撃するようになります。
この現象を、イデアサイコロジーでは「他者化」と呼んでいます(詳しくは「意識の成長と退行―心の病気と他者化」へ)。
また、自分の感情に繋がれなくなるので、他者の感情も分からなくなり、共感能力が低下します。
Pew Researcher Centerの調査では、日本は「弱者に冷たい国」No.1、2019年度の世界幸福度報告では、「寛容さ」が156カ国中92位ということです。これは、共感能力の低下とともに、ナゾロジーでもお話した「ズルい」という感情も影響していると思います。
今まで海外でも評価されてきた日本人の美徳がすっかり失われてしまったようで、本当に悲しくなりますよね。
コロナウィルスはゴジラ&使徒?
でも実は、私はあまり悲観していません。
逆に、これからがやっと日本人が本当の力を発揮することができる時代なんじゃないかと思っているんですよね。
どういうことか、説明していきますね。
まず、戦後からバブル崩壊までの「よい超自我」の力の強かった時代は、社会的な時代の力を使って日本人の主観的特性をよい方向に使うことができていました。
でも、先程お話したように、それはあくまでその時代の社会にあった「よい超自我」の力に頼ることで達成された日本人の美徳だったと言えるのではないかと思うんです。
つまり、個人レベルで見ると、今と同じくらいナゾロジーの記事でお話した「早期完了」の状態の人もいたけれども、「よい超自我」が強い時代であれば「早期完了」の状態でも、「よい超自我」に同一化することで高潔な人物でいられたということです。
ですから、日本人は大多数が一定以上の倫理観と信頼性を持った人間でいられたのかもしれません。
「別に問題がないならそれでもいいんじゃない?」と思う方もいらっしゃいますよね。
でも、自分の本質とつながってきちんと自我同一性を確立した人と、「早期完了」で「よい超自我」に同一化しているだけの人は、表面的には違いが分かりにくいかもしれませんが、共感能力や人間的魅力に差が出てきます。
自己の本質とつながっている人から見ると、どうしても表面的な感じがしてしまうので、魅力は感じにくいし、自分の本質と繋がっていないので相手の気持も分からず本当の共感もできません。すると、真の信頼関係や絆を築くことは難しくなります。
仕事や表面的なつきあいには問題がなくても、深い感情的な関わりが必要になる夫婦関係や子育てには影響が生じます。
しかし、90年代半ばから「よい超自我」が消失し、2000年代初頭からは「他者の時代」に入ったことで、現在は「早期完了」の人と、本質とつながった「自我同一性達成」の人には歴然たる違いが生まれています。
そう考えると、日本人が本質的に変わったというよりも、仮面が剥がれたというのが事実に近いのではないかと私は思うんですよね。
そして、このような状態がずっと続くのかと思っていたところに、今回のコロナウィルスが出現しました。
『奥行きの子供たち』第2章抜粋記事では、ゴジラと使徒のことを「超自我」を破壊するものと定義しています。現実のシステムや社会そのものを破壊しに来るものです。
コロナウィルスは、今、国や国際社会のシステム、資本主義経済や社会システム、仕事の形態、私たちの生活すべてに攻撃をしかけています。これは「よい超自我」以外の、生き残った「超自我」の部分です。
つまり、これこそ庵野監督もびっくりの、リアル「ゴジラ&使徒」と言えるでしょう。
「日本人のあるべき本当の姿とは?」個人の力で「法外のシンクロ」を目指す時代
そして、このリアル「ゴジラ&使徒」によって、残りの「超自我」の影響力が低下するとどうなるのでしょうか。
ナゾロジーの記事では、AIの技術進化の影響も加わって、自分以外の崇高なものとの同一化や「早期完了」の生き方がしにくくなり、自分の本質、つまり感情・動機・欲求などとつながって生きる生き方を目指す時代が来るとお話しました。
「超自我」が強すぎると、自分の本当の感情や欲求、好みに気づきにくくなります。
例えば、世間的に「こういう男性がカッコいい」「女性はこうでないと」というイメージが強いと、本当に自分がどういう人が好きなのか分かりにくくなりますよね。特にアニメなど見ると、80年代くらいまでかなりそのイメージが強かったように感じます。
これから、そういう本当の自分にたどり着くまでの壁となっていたものがすべて取り払われて、自我が丸裸にされる時代がくるのではないかと思うのです。
そうなった時に鍵となるのが、親子関係とエニアグラムだとイデアサイコロジーでは考えています。親子関係で形成された自己・他者イメージやエニアグラムタイプを意識化しコントロールすることです。
そこで自分の本質としっかりつながることができれば、日本人の苦手な自我の確立をきちんとすることができます。
自我をしっかりと確立した上で、日本人の主観的特徴を活かすことができれば、本当の共感で他者とつながることができるようになると私は考えています。
「超自我」に依存せず、自我を確立し自分の本質をきちんと理解した日本人同士が共感でつながる。
それこそが、宮台さんのいう「法外のシンクロ」であり、日本人のあるべき本当の姿なのではないかと私は考えています。